左だから右だからではなく、セクハラはダメなんじゃないんですか?

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「宇都宮さんの姿勢は、誰よりもフェミニストに見えた」

今回、「女性の人権にかかわる問題についての対応という点で、残念ながら一致にいたっていません」とTwitterで鳥越さんへの態度を表明した宇都宮さんの姿勢は、誰よりもフェミニストに見えた。フェミとは、人権に固執する思想だ。
北原みのり(『週刊朝日』2016年8月19日号)

 「女性だって政治の首長を務めるべきだとは思うけど、それは“あの人”ではない」、と訴えるため、終盤になればなるほど、女性政治家や女性文化人がこぞって鳥越俊太郎の応援演説に駆けつけたのには違和感を覚えた。鳥越俊太郎は、週刊誌が告発したセクハラ疑惑について、丁寧な弁明をせずに司法に委ねた。疑惑の中身は、14年前の夏に女子大生に強引にキスを迫ったというもの。その夫によれば、女性は今でもトラウマに苦しみ、自殺を口にすることもあるとのこと。これまでジャーナリストとして反権力を謳ってきたはずの鳥越は、週刊文春にも週刊新潮にも、言葉で返すのではなく、刑事告訴をする道を選んだのだった。選挙に出れば週刊誌が過去をほじくってくることなど容易に予想できたはずなのに、すっかり動揺してしまったのである。

 やっていないことを証明するのは難しい、と繰り返したものの、職種を広く捉えれば同じ物書きとしての先達が、駆け込むように権力に判断を委ねる様子には、怒りというよりも寂しさが募った。その鳥越を、「初めての女性知事はあの人じゃない」という決意で支援していた女性陣。選挙協力を最後までしなかった宇都宮健児は、北原の引用にあるように、この女性問題を宙ぶらりんにしたまま選挙戦に臨んでいる鳥越を見て、「支援しない」との判断を下したわけだが、これを「なぜ一緒に戦おうとしないのか」と宇都宮側への糺弾に使うのはお門違いも甚だしい。

 北原の言うとおり、人権に固執すべきところを、なぜだか「何年も前のちょっとしたセクハラなんてどうでもいいっしょ」と言わんばかりの態度で団結してしまう。これについて、8月3日の東京新聞で斎藤美奈子がこう書いている。膝を打った。「報道姿勢に問題があったとしても、セクハラ疑惑がかかったことは事実であり、そこに目をつぶって応援する女性議員や女性文化人の姿に呆然とした。セクハラは女性の人権問題だと世間に理解させるためにどれほどの努力が必要だったか忘れたの? 敵側に候補者に同じ疑惑がかかっても容認した?」。週刊誌報道を経た後も表立って応援してしまった人に対して、猛省を促す指摘に違いない。

「女」や「セクハラ」という枠組が古めかしく機能した

 小池は「女一人で戦う」を最大限に膨らませて勝利し、鳥越は「ちょっとした女の問題」を萎ませるのに失敗して多くの票を逃した。しかし、その膨張と縮小について、丁寧な議論がなされたとは言い難い。あるいは小池の思想信条に染みるネトウヨ思想は触れられぬまま。彼女が謳う「ダイバー・シティ」は、ある一定の人たちを排した上での多様性だ。小池が秘書に任命した野田数・元都議は、大日本帝国憲法の復活を求める請願を都議会に提出したことで知られる。小池陣営の演出した「男たちに立ち向かっていく私」をメディアが素直に受け止めすぎる事で、有権者に伝えるべきいくつもの論点を沈ませてしまった。

 小池および自民候補を東京都知事に据えたくないばかりに、「“ちょっとしたセクハラ”などない」と長いこと時間をかけて訴えてきたはずの人たちが、「こういう事態だから仕方ない」と頷いてしまう。重複気味になるが、彼女らは「ちょっとだけならいいだろう」から発生するセクハラを許容している、ということなのか。消去法でも候補が見当たらない選挙になったが、消去法へと導く際に「女」や「セクハラ」という枠組が、なんだかリセットボタンを押したかのように機能してしまった事が情けなかった。 
(武田砂鉄)

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