母性信仰由来の「自己犠牲の美化」に、私が憤りを覚える理由

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ママはお手伝いさんじゃない

 先に、「私と家族ひとりひとりは、一対一の関係性が成立している」と書いたが、その点について改めて記しておきたい。家族組織の主従関係に取り込まれていたのは、母だけだ。この点が、私が母を「不可解な存在」と捉えた最大の要因である。私と父の間にも主従のスタンスはあったが、その根底にはお互いの信頼があり、「型」や役割を表層的に準えるだけの関係性ではなかった。祖父母も私にとっては「上の者」ではなく、ただのおじいちゃんとおばあちゃんだ。

 母だけが「型」に忠実に、「上の者」に無私の精神で尽くす。この図式は、我が家が古の家長制度に基づいた男性主権一家であり、嫁いだ女性を隷従させて当然とする風潮の産物だろうか。と考えてみるものの、そんな安直な思案を速攻で却下させる女傑が、我が家にはいた。明治生まれの働く女であった祖母である。

 祖母は、お弟子さんを多勢抱えた髪結いの師匠で、家事育児をすべて弟子やお手伝いさんに任せていたと聞く。その息子(父)は、母の手料理を食べたこともなければ甲斐甲斐しく世話を焼かれた記憶もない。よって家事育児に尽力する古き良き日本のお嫁さん像を、伴侶(母)に求めた。その欠落を埋める構図は理解できるが、祖父母までもが息子の嫁(母)をメイドのごとくこき使う状況には違和を感じる。

 祖父は私が四歳の頃に死んだが、それまで毎朝ロッキングチェアーに座り、私を膝に乗せ、英字新聞を読み聞かせてくれた。その間、母は家族全員の朝食を拵えがてら洗濯をする。祖母は孫である私に着物を着せ、自分も髪を綺麗に結い、いろいろなところに遊びに連れて行ってくれた。他方、自宅にいる母は着の身着のまま、すっぴんで祖母の散らかった衣装箪笥を整理し、風呂掃除をし、夕食の買い出しに行き、産まれたばかりの妹の世話をする。

 家の中で、母は家政婦やベビーシッター同様の、いやそれ以上の過酷な労働を強いられている。母が腹を痛めて産んだ娘の私はといえば、「林家の姫君」として祖父母に可愛がられている。母を差し置いて、「上の者」に贔屓されていた私は立つ瀬がない。

 この図式では、母は、私のお手伝いさんにもなってしまう。違う。私の母は、お手伝いさんじゃない。ただの母がいい。家政婦マシーン扱いするな。人間として扱え。頭に来たので「上の者」に「ママをこき使うな」と苦情を言おうとすると、当の母より「お願いだから我慢して。ママを困らせないで」というお決まりの台詞で阻止される。

 こうして書いてみてようやく、思い出した。私は母の味方をしようとしていたのだ。家のためにただ一人、犠牲を強いられる母の境遇に胸を痛めた。自分がかまってもらえない寂しさよりも何よりも、母の立場や役割が彼女自身を苦しめているように見えることが、子どもとして悲しかった。しかし、本人はその役割を遂行することにプライドを持ち、苦しい反面、喜びも一入とばかりに懸命に働き続ける。娘の悲しみも同情も、母には届かない。

 がっかりした私は、味方をやめた。そして「母は、自分を蔑ろにしている。自らを家の犠牲として粗末に扱うことに、喜びを見いだしている」と、独自の解釈による母像をでっち上げ、「私は絶対に、自分を蔑ろにはしない」と誓い、全力で自己を愛でる自分勝手な人生を邁進するに至ったのだった。

自己喪失のブランクスペース

 自己が見えづらい母のプライドは、演劇の台本通りに動かない子どもたちに「馬鹿にされた」と感じ、激昂する際に現出する。つまり尊敬されてしかるべき「型」を踏襲しているにも関わらず、尊重されない不平不満が、母自身の自尊心を苦しめる。日頃のストレスや疎外感のようなものも感じていたのだろう。いつしか得意の管理は業務を越え、子どものプライバシーを侵害するまで干渉しなければ気が済まない、支配欲求へと昇華する。

 母は、私の人間性を慮ったうえで傾向と対策を練らず、自分が思い込んでいる「子どもは大人しく母親に管理されるもの」とする架空のおとぎ話を根拠に干渉する。自分と子どもを他者として認識できない者による干渉や支配とは、侵略である。己が食われる。娘は危機意識を感じ、全力で逃げる。拒絶と押しつけのリレーが延々と続く中、母の不満はより募る。

 そもそも彼女の自己は、他者と関与することで充足する。人間は一人で生きているわけではないので、他者への関与は必要不可欠なものではあるが、他者に関与しなければ充実できないということならば、その自己の在り方は依存的であり、空疎であると、私は捉える。その自己には、他者を利用しなければ満たされないブランクスペースが存在する。そこに誰かを引き込んで自己を補填しようとする者の心には、本来あるべき自己がない。

 他者のために尽力する活動は、真に無私、無償で、見返りも褒美も何も求めない状況のみ、尊い。空疎な自己を充足させたいという目的が先立つようならば、それは他者を利用した自慰行為であり、多分に見返りを欲している。もっとも、それで実際に救われる人々がいて、需要と供給のバランスが整っているならば、自慰だろうが自己満足だろうが、両者の関係性は健やかと言えるだろう。母の尽力も祖父母や父、親戚や近隣住人には実際に歓迎されている。

 だが、自分の需要に応えることを他者に強要したり、供給を欲するあまりに過度に需要を求めたり、自己都合を基準に他者を利用しようものなら、その活動は他者である相手の自己を蹂躙していることと同義である。そんな「自己の在り方」は、自分本位で横暴なものだ。しかも、肝心の「自分本来の自己」は希薄なままなのだ。自己認識の軸も形成されていないので、満たされない不満や虚無感にすぐ翻弄される。人様の自己にも乱暴に干渉し、振り回す。

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