母性信仰由来の「自己犠牲の美化」に、私が憤りを覚える理由

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 要するに、私が「気持ち悪い」のは、「母性」ではなく、母の「空疎な自己」だ。直接的に「母は空疎な人間だ」と言うつもりもなければ、母自身に自己がない事実もない。私自身が、自己の土壌に「母の自己」を「不在のもの」として放置し続けた。これが私の母性の欠落の正体だ。

 欠落を手伝ったものが、「型」の茶番劇である。「こうすれば幸せになれる」と時代に思い込まされた「幸福の型」やメソッドを踏襲する女性は、みな、空々しく見える。「型」の喧伝する愛を、虚しく思う。男性や家族に依存する女性の心の中には、依存しなければ補填できない巨大なブランクスペースがあるのではないかと懐疑する。それは、己を満たすためだけに他者を吸い込もうとして大口を開けていると想像し、総毛立つ。ああ、気持ちが悪い。

 「自己が空疎」な者は、常に役割を求めている。得意技は「型」の演劇を完璧に勤めあげることである。時に、現実と演劇の境界線があやふやとなり、「今の自分は、本来の自分なのか。お役目を粛々とこなすマシーンなのか」と自問自答する。私はマシーンであると思う。たまに本気でマシーンになりたい自己を持つ人にも遭遇するが、概ね、自ら志願したお役目に対し「マシーンみたいだ。自分が尊重されていないような気がする」と不満を抱く。

 遅い。当然だ。自己を没して「型」を踏襲した者など、私に言わせれば人でなしだ。人間本来に備わったかけがえのない自己が、「型」や制度や役割の傀儡と化す。先行する「型」に、尊い人の心や愛や意志が集約されていく。「型」に「個」が負ける。その構図が、一人の人間として生きたい私には、不気味なものとして映る。

自己犠牲の犠牲者

 だから私は「個」を尊重する。私の自己は、誰にも所属しない。誰の干渉も許さない。不可侵の本城だ。無論、他者の影響は受ける。自分にとって大切な人物への愛情も自己のエリアに芽生える。私はそれを、大切に育てるために、まずは自己を大切に愛でる。他者が大切に育てた他者の自己も愛でる。型も役割もメンツも建前もメソッドも、何も要らない。私にとって用があるのは、目の前にいるあなたという人間の心の真実。ただそれだけだ。

 つまり、私の「型嫌い」は、私の「個」が、母の人生において「型」に負けた(と思い込んでいる)ことへの恨み節である。母の「個」もまた「型」の犠牲となり、娘に欠落を与える。よって、「母親たる者、いつ何時も『子どもの母』であることを優先しろ。自分個人の都合など滅却しろ。女を捨てろ」といった、母性信仰由来の「自己犠牲の強要」言説を耳にする度に、私は憤りを覚えるのである。

 子どもを大切に思う慈愛の母心は確かに偉大だが、母は、母親である以前にひとりの人間だ。「個」も尊重されてしかるべきだ。母親のみならず、「良き父像」も「良き子ども像」もしかり。理想的な「型」を人間に押しつける一方で、個々の意志を尊重しないすべての方法論に、私は憤る。なぜなら、個々に異なる価値観と幸福論をもつはずの人間を馬鹿にしているからだ。「個」を率先して捨て、「型」を遵守する活動も、人間を馬鹿にしているのだ。母もまた、自分自身を馬鹿にしているのだ。

 私が母に感じていた寂しさは、愛着不足のみが原因ではない。母自身が、かけがえのない自己をクリアに受容し、愛そうとしているように見えないことが寂しいのだ。むしろ犠牲的に、粗末に扱っているようなところもあった母は、理想の「型」と現実の「個」が喜びの土壌で合致せず、もがいているように見えた。

 母が苦しんでいるようなら、子も苦しい。母には明るく、幸福に生きてほしい。そうなることで、私も苦しみから開放される。しかし母の「型」への執着は強く、一向に自分本来の自己を受容しようとしない。好きで苦しんでいるようなら勝手にすればいいのだが、母がそれを自己犠牲の善行として肯定し、自分をいじめ抜く限り、娘まで苦しみ続けるという道理を、母は分からない。

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