豊かな母性の愛情が、自己を蔑ろにしなければ成立し得ないものならば、その愛の土台を形成するものは個殺しの自殺である。他者による自己犠牲の強要は殺人と同義だ。と、断言するのはいささか乱暴だが、母親個人の人間性よりも役割を重んじることにより、当の母親の人間としての自尊心が傷つけられたり、自己肯定感を損なわせたり、喪失感を促進するようならば、その人が自己につらい犠牲を強いていることは事実である。そして子どもも傷つける。
この苦境を、「無償の愛と自己犠牲の精神で家族に寄り添う優しいお母さん像」として美化することは、私には絶対にできない。内情はまったく美しくないからこその「美化」活動をもって、偽善の愛の虚無および残虐性を「いい話」として捏造する低能ロマンティストには、寝言もたいがいにしろと言いたい。虚構の美談に陶酔し、本来的な自己をクリアに愛することを放棄する「母」と「母性」など、吐き気がするほど気色悪い。
よって、私は母性を嫌悪する。母親になることを恐れる。もっとも、「そんな母にならなければいい」だけの話ではあるが、母性や愛情の歪みが子どもへと自動的に継承されていくものであるならば、躊躇する。悪い面を嫌悪する私だからこそ、良い意味での母性の包容力を自覚的に発揮してみたいものだが、そのトライアルのために他者を利用すると考えれば、心にブレーキがかかる。このためらいが私の心の問題の焦点である。
原因や根拠に怒りをぶつけても解決しないことは自明の理だ。だから私はこれを機に、自分なりの母性や女性性の発揮や、どうすれば自分が母になることを受け入れられるのかを再考し、実行してみたいと考える。容易ではないが、本来的な自己を愛したい私にとって、挑戦しない手はない。無論、このタスクには相手が要る。男性と向き合う際、今度は父由来のマチズモが邪魔をするわけだが、それについてはまた次回。