「処理する汚物」となった胞衣
こういった習俗は近代まで当たり前のように続いていたようだが、この流れを一変させる出来事が19世紀末に発生する。
江戸時代末期の1858年に始まったコレラの大流行だ。
江戸時代末期から明治時代にかけて、伝染病の流行が複数回発生していたことが確認されている。コレラ以外にも、痘瘡、赤痢、ペストなど、開国直後の時期は多くの伝染病が蔓延していた。前述した例の奈良県でもそれは変わらず、赤痢の大流行で2000人近い患者と500人以上の死者を出している。
伝染病の拡大を防ぐためには、患者の体液などがついた物品から感染が広がらないよう、物品の処理、清掃と衛生的な環境の維持が必要になる。「清潔法施行規則」が生まれたのは、何度かの伝染病大流行を経た明治28年7月16日のことであった。下水の処理や便所の清潔を保つことなどを定めたこの条例の第8条が、胞衣にまつわる規則なのだ。
「胎盤、胞衣、汚血、産児及死者ヲ洗滌シタル汚水ヲ床下二埋却又ハ放流スヘカラス」
すなわち出産で出たものを床下に埋めたりその辺に放り出したりするな、という内容である。ここでは胎盤も胞衣も「汚血」も並列して並べられており、これらは「清潔に反するもの」、全て「汚物」扱いされていることが見て取れる。このとき、胞衣は「信仰の対象」から「処理すべき汚物」であることが明文化された。第8条に違反した場合、一日の拘留または10銭以上1円以下の罰金刑に処せられた。「衛生」という言葉が広まるのは明治を迎えてからのことだ。それまで丁重に扱って床下や門に埋めていた胞衣を、突然「汚いからきちんと条例に従って廃棄しましょう」と言われても、文化を変えられるわけではない。
実際、清潔法施行規則第8条は6年後に改正され、刑罰が「10日以上の拘留または1円95銭の罰金」と重くなっている。刑罰を重くしなければならないほど、違反者が多かったということだろう。
「衛生」の観念とともに胞衣が汚物へカテゴライズされるようになって以来、少しずつそれまでの習俗は駆逐され、焼却処分や公的機関への引き渡しが行われるようになった。胞衣を汚物と変えたのは、伝染病という脅威から身を守るためだけでなく、前近代的な習俗を振り払いたいという人びとの思惑もあったのかもしれない。そしてその一方で、親しんできた習俗が廃れていく喪失感を覚えていた人もいたのだろう。実は同時期に、胞衣納めの儀式を失った人々のために「胞衣神社」も創建されていた。
冒頭で書いた通り、現代では胞衣の処理は専門業者しか行えない。この専門業者というのが「胞衣会社」と呼ばれる存在で、東京では1890年に日本胞衣株式会社が設立されるなど、その走りは伝染病の蔓延以降に生まれている。私たちが存在している現代は、胞衣を信仰の対象にしていた中世と地続きなのだ。
胞衣から考える、生命のあり方
かつて信仰の対象であった胞衣が「処理」されていることに対して、私は何も思わない。病気と闘ってきた人間の歴史の結果であり、人間の生命を守るために習俗を捨てることは必要な対応であった。
ただ、胞衣について考える機会があってもよいのではないかと思う。自分をかつて包んでいたものについて、過去にはどんな信仰があり、どんな事情があったのかを考えることは、人が生命とどのように向き合ってきたかという歴史を考えることでもあるのだ。
今も各地に「胞衣塚」などの胞衣をめぐる遺跡は存在している。もし近所の神社や寺などで名前に「胞衣」が入った遺物を見つけたら、それはきっと胞衣を埋めた儀式の場だ。
人間の生活のあり方が変化しても、胞衣という不思議なものの存在は変わっていない。ただそれをどう認識するかは時代によって異なっており、そこに人の暮らしや価値観が反映されているのだ。私は今、100年後の胞衣がどうやって処理されているのか、ぼんやりと想像している。
参考文献
安井眞奈美「怪異と身体の民俗学」せりか書房、2014年
横井清「的と胞衣」平凡社、1998年
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