社会

小池百合子氏の「男女平等」は、「努力しない人はいらない社会」に繋がりかねない。

【この記事のキーワード】

努力すれば報われる社会/努力しない人はいらない社会

一見するとリベラルな「男女は対等である」「女性も(男性と同じように)活躍できるように」という思想は、実は新自由主義思想との親和性が高いという危険性も持ち合わせています。「同じ状況にいる個人は、人種や性別によって差別されることなく、正当に評価されるべきだ」というのは重要です。しかし、その裏側には「そもそも同じ状況に至ることができない社会構造」に対する思慮が欠如しているからです。新自由主義的な考え方と「男女平等」という思想が接続すると、実は女性を一番追い詰める政策が生まれかねないのです。

新自由主義思想とは、市場原理主義にもとづき、政府による介入を可能な限りなくそうとする(「小さな政府」を目指す)考え方です。そしてこの新自由主義思想に基づいた社会・経済政策は、1980年代からアメリカ、イギリスを中心に沸き起こり、日本も含めて世界のあちこちに現在も広まっています。政府による介入を減らそうとするわけですから、社会保障支出はカットされ、規制緩和・民営化が推し進められます。国民一人一人に自己責任を求める傾向もあり、政府の支援や補助を必要とする人たちをないがしろにし、さらなる困窮や困難に陥らせることになります。

たとえば、新自由主義的な政策を採る政府のもとでは、いくら経済が良くなろうとも、貧困にあえぐシングルマザーや、女性に多い非正規雇用者に対する支援は限定的です。最悪の場合、「明日食べるお金がない」人に対して「どうすれば、ちゃんと仕事ができるようになるか」というとんちんかんな支援策がまかり通り、結局、彼らの生活苦は改善されないようなことが起こります。

新自由主義思想の核にあるのは、「有能な個人ひとりひとりが自分にとって最善かつ自分に最大の利益をもたらす行動を取れば、適切な競争環境によって、社会が最適化される」という思想です。そうした思想を持つ人は「お金持ちは努力したからお金持ちなのだ」「一人一人が自分の利益のために努力することで社会はよくなる」「努力すれば報われる」というストーリーを信じています。しかし、逆を返せば「今、貧しい人たち、苦境にある人たちは努力をしてこなかった人たちであり、自業自得だ」という極論にも通じます。「努力すれば報われる社会にしたい」という政策を掲げることは、逆説的には「努力しない人はいらない社会を目指す」ということでもあるのです。そこには「働けない状況」「頑張れない状況」というものに対する配慮がありません。

しかし、なぜ貧困から抜け出せないのでしょう? 努力していないから?

そうかもしれません。でも、なぜ努力できないのでしょう? そもそも「努力する」という思考や行動はどこから生まれてくるものなのでしょうか?

貧しい人が貧しいのは、単に努力をする/しないという問題ではありません。世代を超えた貧困や差別によって、現実的な選択肢を奪われ、周囲にロールモデルとなる人もいない状況では、そもそも「努力は報われる」という神話を信じる気分になどなれるわけもありません。

「男女は対等である」をフレーズのみで理解してはいけない

国政にせよ都政にせよ、女性活躍の議論というのは「男性と同じように働ける女性がこれだけいる。彼女たちに活躍の場を!」という、男性と対等に働いている女性の状況を改善させようというものがほとんどです。男性と同じように働いている女性たちが正当に評価され、彼女たちがより働きやすい社会を作る、という議論も重要ですが、このアプローチでは、最近注目されている女性の貧困、シングルマザーの貧困といった問題は解決できません。「男女は対等であり、女性は男性と同じように働ける」という思想に基づいて女性政策を論じていては、正社員男性のようには働くことのできない多くの女性の状況を改善することは不可能だからです。一時的に貧困をしのぐような政策が取られたとしても、世代を超えた貧困の連鎖をストップするには、プロセスの平等、構造的平等の達成が必要です。

今回の都知事選では女性政策をある程度具体的に語っているのは小池氏だけです。しかし、私は 彼女のような、構造的な不平等を無視して「男女は対等である」という思想をもつ人物による政策は、困窮状態にある女性たちをさらに追い詰めるものとなるのではないかという懸念を持っています。

1 2

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。