本作は社会のどの部分を切り取っているのか
ここまで、性に対する関心と性へのイメージは深く関わっていること、男性にとってセックスの経験がこれらを覆すチャンスとなり得るが、女性にとってはそうとも言えないことを確認しました。また、これらの背景として、性に対して主体性を発揮するメカニズムの男女差があるといえそうです。
それでは、女性にとって性への主体性を獲得する背景にはなにがあるのでしょうか。社会学者の石川由香里は、女子中高生と性的関心との関係について、家族仲、母親の職業、個室の有無などが影響を持っていることを指摘しています。簡単に要約すると、母親が専業主婦で家族仲が良く、個室がない場合は性に対する関心を持ちにくくなり、そうでないと持ちやすくなるというわけです。まさに、「性的関心を自覚するためには親との適切な距離感が必要だ」という永田カビ先生が本作で身を削ってあばきだしたメッセージの説得力がこのデータからも推察できるように感じられます。
素朴に考えれば、母親が専業主婦で自室がないような生活環境は親からの「監視の目」が厳しく、そのためこっそり漫画を読むこともままならず性的関心を発揮できない状態にあるとみなすこともできるかもしれません。しかし、そこにはもう少し複雑なメカニズムがあるというのが永田カビ先生の主張です。「私、自分から全然大事にされていない」との発見にたどりつく過程において、作者は「私、親の要求に応えたいんだと思っていたけど、”親のごきげんとりたい私”の要求で動いていたんじゃ……」との気づきを得ます。永田カビ先生が鋭く指摘するメカニズム――”親のごきげんとりたい私”が”自分の本心”を無視しているという見立て――は、アメリカの社会心理学者G.H.ミードによる古典的名著『精神・自我・社会』で展開されている自我のモデルに極めて近いもののように感じられます。
ミードの見立てによれば、自我とは社会化された自己(me)とそれによる自我の反応(I)のやり取りの過程として位置づけられます。meとは社会的な常識や枠組みに即して形成された自分自身で(その常識の源泉とはもちろん親や教師です)、Iは常識や枠組みに収まりきれない剥き身の自分自身です。
本作の枠組みに即して考えれば、me=”親のごきげんとりたい私”、I=”自分の本心”といえるでしょう。meとIの両方が十全に表現されることが、自我にとって本質だとするミードの議論に即して考えれば、どちらかがどちらかを抑圧する状態はまさに「自分で自分を大事にできない」危機的状況と位置づけることができます。本作最後に示されている「親不孝が怖くて自分の人生が生きられるか!」との宣言はmeを黙らせてIの声を聞くことの表明であり、その過程において健全さを取り戻した作者の到達点を示す重要なセリフです。
ダヴィンチニュースに掲載されたインタビューで、永田カビ先生は本作の発売によって親との関係が「人生最大規模といっていいほど変わった」としたうえで「他人や世間一般との比較ではなく、『自分はこれをしたら、これだけしんどい』と気づけるよう、自分で自分に耳を傾けてあげてほしい」とコメントしています。データ的に考えれば、本作と同じような苦境に立たされている「若い女性」はまだまだ多くいるように感じられます。このような閉塞状況を打破する第一歩を明確に示しているからこそ、本作は多くの読者から支持され、共感されているものと思われます。次回作もすでにスタートしているとのことです。永田カビ先生の今後の活躍を、楽しみに待ちたいと思います。