今回は、満を持して私の本職、ウィリアム・シェイクスピアのお話をしたいと思います。今年はシェイクスピア没後400周年で、おそらくこの原稿が掲載される頃、私は英国で開催される世界シェイクスピア学会大会を終えたばかりでヘトヘトでしょう。学会と同時に、皆さんにシェイクスピアの楽しみを少しだけお伝えしたいと思います。とりあげる戯曲は17世紀初頭に初演された喜劇『十二夜』(Twelfth Night)で、切る軸は「ツンデレ」です。
ツンデレの定義
皆さんはツンデレはお好きでしょうか。漫画、アニメ、ライトノベル等でよく聞く言葉ですし、なんとなくどういうキャラクターかイメージできる方も多いと思います。しかしながらこの語は多様な使われ方をしており、厳密な定義はなかなか困難です。私が見つけたかぎりでは、「ツンデレ」を広くカバーできる定義としては、以下のものがあります。
1.周囲、もしくは特定の者に対して気丈、強気な性格、行動をとる
2.特定の人に好意的である、または、何かの基点もしくは時間経過によって特定の人に対する接し方、考えが好意的へ変わる
3.普段の気丈さや強気のために素直に好意を表せないといった行動をとる
(依田直也他「女性ツンデレキャラクター創作支援のためのディジタルスクラップブックの開発」『映像情報メディア学会技術報告』 39.14 (2015):111-114、112頁より)
ここで注目すべきなのは「何かの基点もしくは時間経過によって特定の人に対する接し方、考えが好意的へ変わる」という要素です。ロマンティックコメディでは、主人公のふたりが最初のうち互いに悪い印象を抱いているが、なんらかのきっかけで気持ちを変えて恋に落ちるという物語がよく採用されます。こうしたプロットは劇的でメリハリがあり、また最初は不機嫌だった若者が愛のせいで優しくなるというギャップはキャラクターに愛らしさと親しみやすさを与えます。シェイクスピアの『から騒ぎ』(Much Ado about Nothing)は犬猿の仲だった男女が恋に落ちるというこの典型のような喜劇ですし、ハリウッドの恋愛コメディも多くが似たプロットを採用しています。古典的な恋愛喜劇は、もともとツンデレを発生させやすい構造を有していると言えるでしょう。
『十二夜』におけるツンデレ、オリヴィア
シェイクスピアの『十二夜』はロマンティックで笑いに溢れた芝居です。
ヒロインのヴァイオラは海難事故で双子の兄セバスチャンと引き離され、イリリアという国に上陸します。ヴァイオラは男性のふりをしてシザーリオと名乗り、公爵オーシーノーに仕えることにします。オーシーノーは伯爵令嬢オリヴィアに恋をしていますが相手にされません。オーシーノーはシザーリオを恋の遣いとしてオリヴィアのもとに行かせますが、オリヴィアはシザーリオに恋してしまいます。しかしながらシザーリオは主人オーシーノーに恋をしており、オリヴィアの求愛を受け入れません。
そこへ死んだと思われていたセバスチャンがやってきたからさあ大変。ヴァイオラに瓜二つのセバスチャンは皆からシザーリオに間違われます。セバスチャンをシザーリオと思ったオリヴィアは嵐のように求愛します。美女の告白に心がなびいたセバスチャンはオリヴィアと電撃結婚。これを知ったオーシーノーは、忠実だったはずの小姓シザーリオに恋を横取りされたと勘違いし、激怒します。最後はセバスチャンとヴァイオラが双子で、さらにヴァイオラが本当は女であったことがわかり、オーシーノーとヴァイオラが結ばれて終わります。
『十二夜』というと男装の麗人ヴァイオラが有名なのですが、オリヴィアも非常に重要な役どころです。そしてオリヴィアは、上にあげたツンデレの3つの条件を全て満たしており、舞台でもツンデレ的キャラクターとして演じられることが多くなっています。
まず、オリヴィアは「周囲、もしくは特定の者に対して気丈、強気な性格、行動をとる」女性です。伯爵家の女相続人で父も兄も亡くなっているため独力で屋敷を管理し、高貴な身分を誇りにしています。ヴァイオラやセバスチャンよりも年上で大人らしい落ち着きがあり、恋愛以外のことについては大変しっかりした性格です。セバスチャンはほぼ初対面のオリヴィアからあまりに急な求愛を受け、オリヴィアは狂気に陥っているのではと一瞬疑いますが、以下のような独り言ですぐにこの考えを否定します。
もしそうなら、あの人はあんなふうに家を切り盛りし、召使いに命じたり、家の用事をあんなにてきぱきと分別をもって落ち着いてこなしたり片付けたりできるはずがない。(第4幕第3場16-20行目)
どうやらセバスチャンは可愛いだけではなく有能な女性が好みなようで、この時点では既にオリヴィアにメロメロで、すぐ求婚を受け入れてしまいます。ふつうならほぼ初対面の女性と結婚するのはおかしいと思うでしょうが、そこがお芝居のマジックです。召使いの前では堂々としているのに恋する男の前では気持ちを抑えられないオリヴィアは演劇的に魅力があり、観客はこんなに可愛らしい女性なら一目惚れもあり得るだろうと思ってしまいます。このセバスチャンの台詞の後、オリヴィアはセバスチャンに求婚します。突然ウェディングドレスを着たオリヴィアが駆け込んでくるなどの突飛な行動を示す演出が行われることもあり、恋のせいでいつもの威厳を忘れて暴走する美女が生き生きと描かれます。
2つめのポイント「特定の人に好意的である、または、何かの基点もしくは時間経過によって特定の人に対する接し方、考えが好意的へ変わる」も、オリヴィアは満たしています。第1幕第5場で、オリヴィアは最初、シザーリオをからかったり冷たくあしらったりしますが、主人のかわりに真剣に求愛をするシザーリオを見ているうちに心を動かされます。上演する際は、シザーリオがもし自分がオリヴィアに恋をしたら屋敷の外に柳の小屋を作り、夜な夜な「オリヴィア!」と切ない声で泣き叫ぶだろうと言うところでオリヴィアが表情を変える、というように、オリヴィアが何をきっかけに恋心を抱くようになったかはっきりわかるような演出をすることもあります(260-267行目)。
3つめのポイント「普段の気丈さや強気のために素直に好意を表せないといった行動をとる」は、上記の場面の直後に出てきます。シザーリオに恋い焦がれる一方、身分や見栄が邪魔して率直な告白ができないオリヴィアは、執事マルヴォーリオを呼びつけ、嘘をついてシザーリオの気を惹こうとします。オリヴィアはマルヴォーリオに自分の指輪を渡し、これはオーシーノーの贈りものとして押しつけられた指輪で、それを返しに行くためシザーリオを追ってくれと頼みます。シザーリオは指輪など渡していないのでこのマルヴォーリオのお遣いに驚きますが、どうやらオリヴィアが自分に恋をしたようだと気付いて愕然とします。この無茶苦茶な行動の後、オリヴィアは覚悟を決めたのか「デレ」に転じてシザーリオに接するようになります。
デレデレが報われない『十二夜』の世界
この戯曲で面白いのは、デレデレが一切、報われないことです。オリヴィアもオーシーノーも、デレデレの直接の対象から愛を返してもらうことができず、他のところに真の愛を見つけます。
シザーリオは全くオリヴィアに愛を返さず、オリヴィアのツンデレぶりが報われるのは絶望的です。堀あきこは、現代日本マンガのツンデレ表象について「「女性キャラに翻弄される男性」という「関係」を読者が楽しむという構造」(『欲望のコード-マンガにみるセクシュアリティの男女差』臨川書店、2009、227頁)を指摘していますが、『十二夜』には男性がツンデレ女性に対してある種の好意を抱いて翻弄されてしまうという要素がありません。オリヴィアのツンデレは一方通行です。ところが、オリヴィアは勘違いをきっかけにセバスチャンと結ばれて幸せを得ることができます。
オーシーノーのデレデレもオリヴィアのツンデレ同様、報われません。実はオーシーノーは所謂ヤンデレ男子で、断られてもしつこくオリヴィアに求愛し、矛盾した発言をするなど、恋煩いでほぼ理性を失っています。第1幕第1場で、兄の喪に服すため毎日泣いて暮らすので求愛は断るという返事をオリヴィアからもらったオーシーノーは、そんなに情熱的な女性ならオレを愛してくれたらどんなに素晴らしい恋人になってくれるだろうか……と、ドン引きするような妄想をはじめます(23-40行目)。恋のせいで人は馬鹿になるものですし、シェイクスピアの時代の人々はいかに恋が人の判断力を失わせるかに強い関心を抱いていていました。このためオーシーノーの恋煩いは容赦なく描かれています。オリヴィアは自分が恋のせいで理性を失っていると自覚していますが(第3幕第4場14行目)、オーシーノーは自覚が無いぶん余計始末が悪いヤンデレです。しかしながらデレデレの対象であるオリヴィアがセバスチャンと結婚してしまった後、オーシーノーはもっと似合いの相手であるヴァイオラに真の愛を見いだすことができました。オリヴィアにとってもオーシーノーにとっても、愛はデレデレの先にはなく、別のところで見つかるのです。
一方で恋を隠しており、主要登場人物の中では最もデレデレしていなかったヴァイオラは、最初から愛していたオーシーノーの心を得ることができます。恋によって理性を失わなかったヴァイオラが“his fancy’s queen”(第5幕第1場381行目)つまり恋の女王様になって終わるこの作品は、デレデレの危険性を諷刺していると言っていいかもしれません。恋のせいで人は馬鹿になりますが、馬鹿みたいにデレデレしていては幸せはやってこないのです。
この戯曲では、登場人物のジェンダーによって恋煩いに描き分けがあることも注目すべきでしょう。オーシーノーは恋の病のせいで恋愛喜劇の主人公にしては目も当てられないほどの勘違い野郎になってしまっていますが、一方でオリヴィアは自分が恋の病にかかっていることを自覚しつつ溺れており、ヴァイオラは最も抑制的です。女性のほうが男性よりも恋についてまだいくぶん理性が働くという描き方になっており、これは演出の際にポイントになります。
ストックキャラクターの功罪
ツンデレとかヤンデレといったキャラクター類型は「ストックキャラクター」と言われます。これはフィクションにおいて、なんらかの伝統や型に基づいた形で繰り返し登場するキャラクターのことです。たとえば歌舞伎に登場する「赤姫」はストックキャラクターの一種で、赤い着物を纏った恋するお姫様を指します。蜷川幸雄が歌舞伎を取り入れて演出した『十二夜』ではオリヴィアが赤姫として赤い衣装で演じられていましたが、観客は見た瞬間「あ、このお姫様は恋に落ちるんだな」とわかるわけです。
こうしたストックキャラクターは、新しいもののように見えても意外に伝統に基づいていることがあります。現代のツンデレやヤンデレに近いキャラクターは既に『十二夜』のような古典的な戯曲に見いだせます。『十二夜』のようなシェイクスピアの時代の芝居には、恋をすると人は馬鹿になるという人生に対する諦めが裏に潜んでいます。現代日本のツンデレからルネサンスの人生訓を見いだすのは少し難しいかもしれませんが、機会があれば是非、恋の病に関する英国ルネサンスの知恵を思い浮かべながらツンデレを見てほしいと思います。
ストックキャラクターは伝統を利用して見た目や仕草などでお客にその人物の性格をわかりやすく伝えられるため、作劇上便利なツールです。一方で容易にステレオタイプに陥りやすいという危険性をもはらんでいます。たとえばフェミニスト批評においては、「ファム・ファタル」(男性を破滅させる魅力的な女性)や「ブロンドちゃん」(金髪で何も考えていない美女)といった女性のストックキャラクターが、ネガティヴなステレオタイプに陥っていることがしばしば厳しく批判されています。しかしながら、ステレオタイプに陥りそうなキャラクターであっても、ひねりを加えることで独創的な物語にすることは可能です。連載第七回でとりあげた『紳士は金髪がお好き』などは、ブロンドとブルネットに関するストックキャラクターを登場させつつ新鮮味のある物語を作っています。デレデレが全く報われない『十二夜』も、ツンデレやヤンデレを見慣れた現代の観客であれば、可愛いけれども少しほろ苦い、ひねりの利いた芝居として見ることができるでしょう。シェイクスピアは現代人も楽しめるところがたくさんありますので、興味を持った方は是非劇場に足を運んでみてください。
※シェイクスピアからの引用は全てWilliam Shakespeare, Twelfth Night, Arden Shakspeare Third Series, ed. by Keir Elam (Bloomsbury, 2015)から、翻訳はウィリアム・シェイクスピア『十二夜』河合祥一郎訳(角川文庫、2011)からのものである。