べ、別にあんたのためにツンデレを分析してるわけじゃないんだからね!~シェイクスピア『十二夜』を考える

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デレデレが報われない『十二夜』の世界

 この戯曲で面白いのは、デレデレが一切、報われないことです。オリヴィアもオーシーノーも、デレデレの直接の対象から愛を返してもらうことができず、他のところに真の愛を見つけます。

 シザーリオは全くオリヴィアに愛を返さず、オリヴィアのツンデレぶりが報われるのは絶望的です。堀あきこは、現代日本マンガのツンデレ表象について「「女性キャラに翻弄される男性」という「関係」を読者が楽しむという構造」(『欲望のコード-マンガにみるセクシュアリティの男女差』臨川書店、2009、227頁)を指摘していますが、『十二夜』には男性がツンデレ女性に対してある種の好意を抱いて翻弄されてしまうという要素がありません。オリヴィアのツンデレは一方通行です。ところが、オリヴィアは勘違いをきっかけにセバスチャンと結ばれて幸せを得ることができます。

 オーシーノーのデレデレもオリヴィアのツンデレ同様、報われません。実はオーシーノーは所謂ヤンデレ男子で、断られてもしつこくオリヴィアに求愛し、矛盾した発言をするなど、恋煩いでほぼ理性を失っています。第1幕第1場で、兄の喪に服すため毎日泣いて暮らすので求愛は断るという返事をオリヴィアからもらったオーシーノーは、そんなに情熱的な女性ならオレを愛してくれたらどんなに素晴らしい恋人になってくれるだろうか……と、ドン引きするような妄想をはじめます(23-40行目)。恋のせいで人は馬鹿になるものですし、シェイクスピアの時代の人々はいかに恋が人の判断力を失わせるかに強い関心を抱いていていました。このためオーシーノーの恋煩いは容赦なく描かれています。オリヴィアは自分が恋のせいで理性を失っていると自覚していますが(第3幕第4場14行目)、オーシーノーは自覚が無いぶん余計始末が悪いヤンデレです。しかしながらデレデレの対象であるオリヴィアがセバスチャンと結婚してしまった後、オーシーノーはもっと似合いの相手であるヴァイオラに真の愛を見いだすことができました。オリヴィアにとってもオーシーノーにとっても、愛はデレデレの先にはなく、別のところで見つかるのです。

 一方で恋を隠しており、主要登場人物の中では最もデレデレしていなかったヴァイオラは、最初から愛していたオーシーノーの心を得ることができます。恋によって理性を失わなかったヴァイオラが“his fancy’s queen”(第5幕第1場381行目)つまり恋の女王様になって終わるこの作品は、デレデレの危険性を諷刺していると言っていいかもしれません。恋のせいで人は馬鹿になりますが、馬鹿みたいにデレデレしていては幸せはやってこないのです。

 この戯曲では、登場人物のジェンダーによって恋煩いに描き分けがあることも注目すべきでしょう。オーシーノーは恋の病のせいで恋愛喜劇の主人公にしては目も当てられないほどの勘違い野郎になってしまっていますが、一方でオリヴィアは自分が恋の病にかかっていることを自覚しつつ溺れており、ヴァイオラは最も抑制的です。女性のほうが男性よりも恋についてまだいくぶん理性が働くという描き方になっており、これは演出の際にポイントになります。

ストックキャラクターの功罪

 ツンデレとかヤンデレといったキャラクター類型は「ストックキャラクター」と言われます。これはフィクションにおいて、なんらかの伝統や型に基づいた形で繰り返し登場するキャラクターのことです。たとえば歌舞伎に登場する「赤姫」はストックキャラクターの一種で、赤い着物を纏った恋するお姫様を指します。蜷川幸雄が歌舞伎を取り入れて演出した『十二夜』ではオリヴィアが赤姫として赤い衣装で演じられていましたが、観客は見た瞬間「あ、このお姫様は恋に落ちるんだな」とわかるわけです。

 こうしたストックキャラクターは、新しいもののように見えても意外に伝統に基づいていることがあります。現代のツンデレやヤンデレに近いキャラクターは既に『十二夜』のような古典的な戯曲に見いだせます。『十二夜』のようなシェイクスピアの時代の芝居には、恋をすると人は馬鹿になるという人生に対する諦めが裏に潜んでいます。現代日本のツンデレからルネサンスの人生訓を見いだすのは少し難しいかもしれませんが、機会があれば是非、恋の病に関する英国ルネサンスの知恵を思い浮かべながらツンデレを見てほしいと思います。

 ストックキャラクターは伝統を利用して見た目や仕草などでお客にその人物の性格をわかりやすく伝えられるため、作劇上便利なツールです。一方で容易にステレオタイプに陥りやすいという危険性をもはらんでいます。たとえばフェミニスト批評においては、「ファム・ファタル」(男性を破滅させる魅力的な女性)や「ブロンドちゃん」(金髪で何も考えていない美女)といった女性のストックキャラクターが、ネガティヴなステレオタイプに陥っていることがしばしば厳しく批判されています。しかしながら、ステレオタイプに陥りそうなキャラクターであっても、ひねりを加えることで独創的な物語にすることは可能です。連載第七回でとりあげた『紳士は金髪がお好き』などは、ブロンドとブルネットに関するストックキャラクターを登場させつつ新鮮味のある物語を作っています。デレデレが全く報われない『十二夜』も、ツンデレやヤンデレを見慣れた現代の観客であれば、可愛いけれども少しほろ苦い、ひねりの利いた芝居として見ることができるでしょう。シェイクスピアは現代人も楽しめるところがたくさんありますので、興味を持った方は是非劇場に足を運んでみてください。

※シェイクスピアからの引用は全てWilliam Shakespeare, Twelfth Night, Arden Shakspeare Third Series, ed. by Keir Elam (Bloomsbury, 2015)から、翻訳はウィリアム・シェイクスピア『十二夜』河合祥一郎訳(角川文庫、2011)からのものである。

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