わたしはかねてより、映画、テレビドラマ、小説などフィクションにおける「女ことば」に関心を持っている。それは自身が、解剖学的には男性として生まれながら身体を女性化していくMtF(Male to Female)トランスジェンダーであることも大きい。同性に性欲や恋愛感情を抱く男性であるゲイと、性別違和を抱くMtFらをひっくるめて「オネエ」や「オカマ」と呼び、「女ことばを話す」とする固定観念がはびこっており、そのちがいや、ゲイやトランスジェンダーのあいだでも多様な人々がいるという当たり前の事実が、なかなか一般には語られないことに対するいきどおりもある。オネエことばを話すゲイの男性もいれば、わたしのようにショートカットを好むMtFもいるのに。
2000年に渋谷のシネマライズで、FtM(Female to Male)である主人公を描いた『ボーイズ・ドント・クライ』を鑑賞したとき、主人公のいとこのセリフが字幕では「女ことば」に翻訳されていることに違和感を持った。字幕を不思議に思いながら観ていると、主人公のいとこがゲイであるとわかり、翻訳字幕に対する違和感はよりいっそう大きくなった。
以前messyで書いた記事でもふれたように、このいとこはゲイではあるが、デフォルメされた「女らしい」動き、つまり、くねくねと身体をよじらせたり甲高い声で話すような、メディアで描かれやすいゲイ像とは異なる(こうしたゲイ=女らしいといったイメージも偏見に基づく)。「ゲイ」という情報だけで、日本人観客になじみのある「ゲイ=オネエことばを話す」というフォーマットを当てはめたのが、本作の字幕だと思われる。わたしがフィクションにおける女ことばへの関心を持つきっかけはこの作品だった。
同様に、去る6月に来日していたアイスランドのシンガーソングライターであるビョークへのインタビュー記事で、彼女の発言が「〜わ」「〜なの」「〜なのよ」といった語尾をまとった「女ことば」へと翻訳されていることにも違和感を抱いた。ツイッターでそう発言したところ、インタビューと翻訳を担当した(『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)で知られる)宇野惟正氏からリアクションをいただき、他の方からの「妥当な翻訳ではないか」といった意見が見られた。上記のインタビュー記事の内容自体はたいへん興味深いもので、貶めるつもりはないということはお断りしておく。しかし、音楽だけでなく、本記事でも取り上げられている先進的な技術と共に新しいカルチャーを作ろうとし、独立的でもあり、かつフェミニストを自称したこともある彼女が、果たして女ことばで話すのか? という疑問はぬぐえない。
カルチャーが「女ことば」の普及を担った歴史
言語学者の中村桃子氏は『女ことばと日本語』(岩波新書)で、鎌倉時代から第二次世界戦後までの「女ことば」の変遷を辿っている。本書は、歴史上のマナー本による「ひかえめであれ」と女性に規範を求める男尊女卑観、標準語の成立に隠されている男性中心主義的な思想、標準語と女ことばがナショナリズムに都合よく利用されたこと、などをあぶりだしている。特に第5章を読むと、言語表現の統制が人間のあり方を縛り、戦争を肯定するイデオロギーに加担することにもなった歴史がわかり、言葉という何気ないものさえ争いに巻き込まれることを想像し、ぞっとする。
『女ことばと日本語』によると、「日本という同じ国の国民だと実感してもらおう」という意図のもと、明治時代に東京語を基準とした標準語が成立されていった。女ことばは口語の文法書や国語の教科書には含められず、男性が国の担い手とされる一方で女性には良妻賢母として国や家を支える二次的な役割が当てられたのと同様に、一般的ではないとされた。例えば、東京でも一部の男児が「あたい」という主語を使っていたが、女ことばだからと国語として認められなかったそうだ。その後、戦時中には女ことばは伝統という位置付けで、日本語の価値を高めるために利用されていった。
こうした価値観を一般に普及する役割を、文学などカルチャーや新聞などメディアが担うところもあった。たとえば、坪内逍遥は小説において、「さまざまな話し言葉を使い分けることで登場人物の特徴づけを鮮明」にし、「さまざまな集団をその言葉づかいの違いを強調して描写することを勧め」たという。また、二葉亭四迷はツルゲーネフの『父と子』を翻訳するにあたり、西洋の若い娘を表すために、その語りに「てよ」「だわ」といった文末詞をつけた語りを採用したのだそうだ。男女の役割規範において不均等な関係が生み出されていったように、谷崎潤一郎が『文章読本』で性によって異なる言葉づかいを奨励した例もある。こういった表現には、「女性は女ことばを話すはず」という現実がまるで実際に存在するかのような言説を普及する側面がある。
当然のことだが、女性は一様に「〜だわ」「〜なのかしら」といった話し方をするわけではなく、多種多様で、立場のちがいや育ち方、教育などの差で言葉づかいが異なったりするものだ。しかし、創作や翻訳で自動的に女ことばとされてしまうと途端に発言の内容が色づけされてしまう場合もある。『女ことばと日本語』を読んでいると、ささやかなものだから女ことばに訳したりフィクションの登場人物の言葉づかいにまとわせたりするのも問題ないのではないかという安易な姿勢を取る者に対して、言葉というものの影響力に自覚的ではないと思わざるを得なくなる。
『女ことばと日本語』の問いを実践する宇多田ヒカル
そこでわたしが思い出したのは、宇多田ヒカルである。彼女が登場したとき、その楽曲や歌唱のクオリティとは別に、テレビ番組などでタメ口で話す姿勢にも大きな注目が寄せられていた。宇多田のファンであるわたしが彼女の楽曲を親に聴かせてみようとしたところ、ダウンタウンなど年上のタレントに対してあんな無礼な口の利き方をする人間の音楽など聴きたくもない、と拒絶をされた経験が忘れられない。ここには、「女性」と「若者」という二つの規範によって、宇多田を否定的に見る目が潜んでいるのではないか?
宇多田は、意識的に言葉づかいを使い分けていることを、ウェブサイトで綴ってきた「Message from Hikki」で明らかにしている。
「敬語ってほら、相手との距離を示すものだよね? 敬語を複数で使用するほど、距離を強調するんだよね? 言葉が与える印象の面で敬語は大事だと思うし、日本の大事な文化だけどさ(中略)いろいろ考えながら、「これは、敬語じゃないと失礼に聞こえるかも」っていうところだけ敬語を使ったり。話している人の中身を探りたいから、距離をできるだけ無くしたい、って思うのは自然だよなぁ? 普通は敬語を使うことが礼儀だけど、私にとっては敬語を使わないことが礼儀だったりする」(「Message from Hikki」1999年3月26日「賞味期限」)
2001年3月1日放送の『うたばん』(TBS)では、見た目がタイプだというV6の岡田准一の登場に際し、口説き文句として「お金ならあるわよ」と言う。これは真剣に恋心を抱いているわけではないだろう場面で、言葉どおり金持ちである自分を客観的にネタにしたうえでの、ウケ狙いではないだろうか。また、『SAKURAドロップス』のビデオ撮影のメイキングでは、当時結婚前だった監督の紀里谷和明に目をつむらないよう指示されたノンカットシーンの撮影後、彼に向かって宇多田が「まばたきしなかったぜー」と誇らしげに言う様子が収められている。この映像にはほかにも「かっちょいー」と言うなど、「だぜ」という男ことば含め、乱暴さというよりむしろ彼との親密さの帯びた話し方が見て取れる。
このように宇多田は、中村氏の著作のような研究書籍を読むなど専門的に学んだかどうかは不明だが、言葉づかいがもたらす印象と時にたわむれながら社会的にどういった意味をもたらすのかという、『女ことばと日本語』の問いを個人的に実践している様子がうかがえる。マンガの登場人物のような彼女の戯画的な語りには、通り一辺倒に敬語=礼儀とする価値観に対する疑問が込められているようにも思われる。
宇多田は、2004年にアメリカのデフジャムというレーベルから英語によるアルバム『EXODUS』をリリースしている。その日本語盤には、歌詞の対訳を担当した新谷洋子との対談が収められており、翻訳について興味深いやりとりがなされている。
女ことば語尾が多用されている初期の対訳に対する宇多田の違和感と、これまでの彼女の日本語作品に比べて「ずっと女っぽい印象を受けた」という新谷の翻訳上の困難が、最後まで懸案事項だったという。しかし、語尾によって「言葉の直接の意味がちょっと薄れる感じ」「いろんな意味を含む言葉が、語尾のせいで単一の印象に縛られている感じ」を抱くという宇多田の指摘が優先され、本作の対訳では女ことばは廃されている。この対談は、彼女と新谷氏の言葉に対する真摯なアプローチがうかがえて、対訳後記も含め、おもしろいのでぜひ読んでみてほしい。
女ことばや男ことばとされる言葉づかいそのものを否定するつもりはない。宇多田ヒカルがそうするように、個人的にも様々な言い回しとたわむれながら、人との距離感を楽しむように使いたい。しかし、冒頭でふれたように、MtFであるがゆえにさらされる偏見、そしてその代表たるものとしての「オネエ言葉=デフォルメされた女ことばを使うだろう」といった言説に抵抗する。もし、英語でインタビューを受け、それが日本語訳される機会があったとして、わたしがMtFだからと言って語尾に「〜だわ」「〜なのよ」などとつけられると考えたら、ゾッとしない。
中村氏の著作から引いた近代小説の担い手たちも、むずしい文語体ではなく話し言葉に近く読みやすい口語体を推進しようとする当時の言文一致運動を背景に、「西洋の事物や人物を日本語に置き換えることの難しさ」を抱えながら、女ことばを使った創作や翻訳を試みてきた。過去を振り返りながら、現在における著名人や身の回りの人々の語りや、それらに対する自分の価値づけを改めて考え、様々なかたちの日本語に備わっている意味や印象に対して意識を払ってみることは、翻訳や通訳など、誰かの言葉を代弁する表現の担い手としての課題ではないだろうか。
(鈴木みのり)