今年4月、『長渕剛論 歌え、歌い殺される明日まで』(毎日新聞出版)を上梓した批評家の杉田俊介さん。歌手・長渕剛が持つ、複雑で、矛盾を内包した「男性観」「日本人観」に肉薄したことで話題になっています。「男らしさ」をテーマにした書籍や映画が続々と生み出され、問題意識が高まりつつある近年。私たちはいま「男らしさ」をどのように捉え、語っていくべきなのか。messyにて、映画の中で描かれる女性性・男性性についての批評を連載しているライターの西森路代さんと、「男らしさ」「暴力性」について存分に語り合っていただきました。
――近年、「男らしさ」について言及されることが増えています。それらは主に「男性が抱えている生きづらさは、その人が縛られている『男らしさ』によるものなのではないか」という問題意識から書かれていることが多いように感じます。「男が外で稼がなくちゃいけない」「弱音を吐いちゃいけない」といった「男らしさ」から解放されよう、という提案ですね。気になっているのは、“生きづらさの原因”と考えられる「男らしさ」の否定的な要素を削っていったら何が残るのか、という点です。否定を続けると「男らしさ」というものはなくなるのか、それとも「理想の男らしさ」が浮き上がってくるのか。おふたりにとって「男らしさ」とはどういうものなのでしょうか?
杉田 僕は「自分は何でこんなに男らしくないのかなあ」「自分ってダメだなあ」とそれなりに苦しんできたと思うのですが、かといって「男らしさ」や「男性性」を全否定して、その呪縛から完全解放されようとするのも、ちょっと違うのかな、と感じてきました。たとえば僕の知り合いにも、自傷行為のように男性的な身体を否定したり、男であることの暴力性をひたすら責め続ける人がいて、それはそれでこじらせてしまっている気がするんです。男らしさの抹殺が逆にアイデンティティになってしまって、周囲の男たちのマッチョな言動を攻撃しているうちに、自分も暴力の罠に絡め取られていく。
マジョリティとしての男性の特権に居直るわけでもないし、かといってマイノリティとも言えない。しかしマッチョな意味での「男らしさ」に違和感を感じ続けている。そんなグレーで曖昧な領域にあるような「男らしくない男性」のあり方について、考えてきた感じです。僕自身は根深い非モテ意識やルサンチマンを抱えた人間なのですが、そうした人間にとってもアクセス可能な、いろんなタイプの「男らしさ」のモデルがあってもいいんじゃないかな。でも、そういう話をするのはなかなか難しくって、『長渕剛論』でも否定に否定を重ねながら、いまだに手探りしているという状態です。
西森 私は「『男らしさ』に見える思い込みが苦手」とよく書いてますけど、それは「男らしさ」自体がいやなのではなく、男性が「男はこうでないといけない」とがんじがらめになってるのを女性から見ると、気持ちがよくないし、ちょっと置いていかれたような感覚や恐怖を感じるからなんです。
かんじがらめになっていないキャラクターでいうと、messyの連載でも取り上げた映画『アイアムアヒーロー』の主人公・英雄は、「(マッチョな)男らしさ」をまとったキャラクターではないと思うんですけど、女性は英雄のことを好きとまで思わなくても、嫌いと思う人はいないかなと思うんです。行動を共にする比呂美というヒロインに「英雄くんといると安心する」と言われて英雄はがっかりするけど、あれはかなりの褒め言葉ではないかと。
杉田 肉食系のマッチョだけではなく、世の中には草食系のクズや非モテをこじらせたマッチョもいるわけですよね、当然のことながら。むしろ見かけの優しさがありあまる日本の風土では、後者が危ういのかもしれない。『アイアムアヒーロー』の原作を描いている花沢健吾さんの漫画の男性たちは、『ルサンチマン』にせよ『ボーイズ・オン・ザ・ラン』にせよ、承認欲求や非モテマインドを複雑にこじらせた男性が多いですね。
漫画版の英雄は、非モテのルサンチマンを抱えていて、それが極限状況の中でどろどろのマチズムへと裏返っていくんだけど、映画版では、それをあえて意図的に抜きとっていましたね。そこがかなりうまくいっているなと感じました。英雄君は、目の前で比呂美がゾンビになりかけても、撃てないし、見捨てられない。ずっと寄りそっていく。彼の場合、草食男子的な優しさというより、たんに気が弱いだけなんだけど、それがかえって「男らしくないことのユーモア」や「気弱であることの倫理」のようなものになっている。
――「女性から見て気持ちの良いものではない」とおっしゃいましたが、西森さんにとって「男らしさ」は、男性が女性の視点を想定して持つもの、つまり「女性にモテるためにはかくあるべし」と思って身に着けているようなものだとお考えなのでしょうか?
西森 まったく逆ですね。むしろ女性と共存するための「男らしさ」があまりないなと思うんです。たとえば、王子様的なキャラクターが女性に優しくすることを「男らしさ」って捉える男性って少なくて、むしろ「気持ち悪い」「ウソっぽい」みたいに思う人はいますよね。どちらかというと、女性のいない空間で、男の人同士で認めてほしいと思ってやってることが「男らしさ」の基準になっていることが多いと思うんです。この前、messyの連載で『ブロークバック・マウンテン』について書きましたが、あの物語も主人公のひとりは、男社会の落ちこぼれになりたくないから男らしくあろうとしていたなと思いました。
最近、男性同士が仲良くしているのを見るのが好きな人って多いですよね。BLに限らず、アイドル同士が仲がいいエピソードを聞くと、なんかいいなと思ったり。まあ、それも極端になると、ホモソーシャルにつながるかもしれないけれど、そうではない連帯みたいなものが、男女問わずにあればいいなと思います。
杉田 男性たちのホモソーシャルな空間は、ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)から成り立っている、と言いますよね。『アイアムアヒーロー』のショッピングモールは、わかりやすいほどにホモソーシャルな空間でした。いちばん強い人間が王になって、「俺が法律だ」とか言いだす。一人の王が転落すると、また違う強者が王になる。前半は英雄の優柔不断な男らしくなさを描いて、中盤からは男性たちの閉鎖的なホモソーシャリティを対比的に描く、という構成なのかなと。そういえば、この映画の脚本を書いたのは女性なんですね。
西森 映画『図書館戦争』とかドラマ『重版出来!』(TBS系)を書いた野木亜紀子さんが脚本ですね。
杉田 逆に言うと、気が弱くて弱虫であること、優柔不断で決断ができないことは、ルサンチマンさえうまく抜き取れば、欠点じゃなくて美点になりうるし、周りの女性たちに安心や笑顔を与えるユーモアにもなりうる。それは「男らしくなれないけど、男であることから降りられもしない」という「男らしくない男たち」にとっては、規範的なモデルになりうるのかもしれませんね。大泉洋さんの役者としての個性とすごくマッチして、その辺りがうまく示されていた。
性役割分業の男性像とかマッチョな男らしさには抵抗感があるけど、男であることからも降りられない、という男性たちは結構いる気がするんです。そういう男性たちにとって、英雄は色々な意味で共感できるキャラクターではないでしょうか。少なくとも僕はかなり好きでした。
西森 映画で描かれる「矛盾した男性性」っていうと、どこか反骨精神とかがあって初めて成立するものが多い中、『アイアムアヒーロー』のように、法に反さないで、ヒーローになるってすごく珍しいと思います。そういう反骨精神にこそ男性性があると思う向きは大きいのかなと思うので。
杉田 正直に言うと、かなり雑な映画だし、無駄が多過ぎるとも感じたんですよ。色んな意味でもったいないなあと。たとえば『マッドマックスFR』とか『ズートピア』なんかの緊密な完成度に比べると、すごくぐだぐだで。ただ、そのゆるくて雑なところが、色んな意味で「日本的」な状況をあらわしているのかなあ、とも思いました。ぐだぐだであるからこそ、男たちの置かれた状況を無意識のレベルでとらえているのかも、とか。
あと、英雄のすごいところは、人間的な秩序や法が存在しない状態、社会契約論でいう自然状態のようなところでは、男は肉食化して、弱肉強食になっても当然でしょ、という思い込みが普通はあると思うんです。戦場の男たちには女性が性的奉仕してあげるべきだとか。
西森 日本映画では、なぜか女性がおにぎりを握りだすというね……。そういう世界が、同じゾンビ作品である『ウォーキング・デッド』とかに描かれてたわけですよね。
杉田 そうやって日常的な秩序が崩れた世界で、目の前にゾンビが差し迫っていても、違法行為だから発砲できない、という英雄の遵法意識が面白かった。映画版の英雄君は、自分が「普通」だと何度も強調しますよね。こういう非常事態の中でも、「普通」でいられて、ミソジニーや暴力衝動に飲み込まれないで、自分の言動につねにツッコミを入れて、その情けなさによって他人に安心感や笑顔を与えられるって、結構すごい。
西森 私もmessyの連載で、「英雄の目がおかしくならないことがすごい」って書きましたけど、同じ意味ですね。
杉田 英雄は「去勢された男性」であって、それを「平和憲法によって去勢された日本人」と重ねる、というタイプの議論もあったそうですね。でも、そうした「去勢された男性が銃を手にして女性を守ることで男らしさを回復する」とか、「去勢された日本人が武装化して主体性を回復する」みたいなストーリーになりそうで、ぎりぎりそうはならないところが、この映画の面白いところではないかと。英雄君の場合、そういうタカ派的な「男らしさ」ではないですよね。
西森 それこそ、女性と男性が共存できる「男らしさ」ですよね。
杉田 最後の銃撃戦のあとで、半分ZQN化した比呂美が「ヒーロー」と呟く、という演出は正直引きましたけど、そのすぐ後に「ヒーローではなく、普通の英雄です」って言わせるところは、とてもグッときました。そういう振れ幅が大きい作品だなと。
西森 あれは、漫画の一場面にもあるシーンだけど、そこを最後にもって来て、危機的状況で、暴力性を爆発させるのではなく、「普通」でい続けられることが、人をヒーローたらしめるんだ描いたってところはすごいと思いますね。
杉田 ちゃんと原作を読み込んで解釈してるのがいいなと思いました。原作に対する一つの批評になってる。
西森 杉田さんは、暴力とは何なのかを、自分のこととしてとことん考え抜いて、『長渕剛論』を書いてましたよね。それからすると、暴力について描かれた映画については、きっといろいろ思うところはありますよね。
杉田 たとえば僕はたまたま『アイアムアヒーロー』と同じ日に『ディストラクション・ベイビーズ』も観たんですけれど、ひたすら暴力が描かれていると評判だったので、消耗するかも、と身構えていました。でも、画面のどこにも一度も暴力が映っていないじゃん、って思った。意味不明な暴力に憑りつかれた柳楽優弥君が主人公で、彼の暴力性がどんどん感染していく。でも、正体不明のサイコパス的な暴力とか、時代的な鬱屈ゆえの暴発とかを今さら描いても、それだけじゃ物足りないのではないか。昔の村上龍とか、『ザ・ワールド・イズ・マイン』(週刊ヤングサンデー・1997年~2001年)と何が違うんだろう。思想としての暴力じゃなきゃ、わざわざ描く意味がないんじゃないかな。それよりも、『アイアムアヒーロー』の英雄君のぐだぐだの葛藤とか、『ズートピア』のジュディが無意識の善意によってキツネ差別をしてしまうシーンとかね、そういうシーンの方がこの世の暴力の怖さに真剣に向き合っている気がした。
たとえば小松菜奈さんのキャラクターも、誘拐される前から、万引きの常習犯だったり、菅田将暉くんが商店街で女性たちを襲っている動画をスマホで見て興奮しているシーンが描かれていて、そういった演出があたかも「彼女の中にも最初から暴力性があったんだ」というアリバイ作りのようだった。主人公はサイコパス的な暴力、菅田君はルサンチマンやミシジニーと結びついた弱者に対する暴力と、三人三様の暴力が差別化されているように見えながら、結局、人間って本質的に暴力的な生き物で、暴力に感染するよね、っていう平板な感じに見えてしまった。だったら、喧嘩祭りみたいな共同体のお祭りに参加して、健全に暴力を解消して、普通に暮らしていけばいいのでは、って思いました。
西森 私は、その祭りのシーンと主人公を重ねた意味をちゃんと解釈できなかったけど、そういうことなんですかね。
杉田 弟は、兄の暴力性に魅かれながらも、共同体的な秩序へもまだ戻れる、まだ人間に戻れる、という葛藤を表わしているのかなとは思いました。
西森 弟だけは希望にも見えたのは、そういうことかもしれません。
杉田 青山真治監督の『EUREKA』(2000年)という映画がありました。僕の中では、暴力映画のリミットとして、いまだに個人的な傷になっているんですけれど。バスジャック事件にたまたま巻き込まれた兄と妹とバス運転手の話なんですね。全くの偶然で暴力に巻き込まれたり、被害者が別の暴力の加害者になったりして、加害と被害が反転し、重層化していく。暴力にはそういう怖さがあると思うんですね。単純に被害者とか加害者とは言えなくなってしまう。そうした痛みや失語を抱えながら、それでも暴力の悪循環に飲みこまれずに、どうやって非暴力的な新しい関係を作っていけるのか。その辺がリアルでした。
西森 これもmessyの連載に書きましたけど、父の持つ暴力性が、息子の自分にも受け継がれてるんじゃないかと葛藤する『共喰い』も『EUREKA』と同じ青山真治監督なんですよね。
杉田 ああ、そうなんですか。今度観てみます。そういえば、『EUREKA』と前後して、クリント・イーストウッドの『ミスティック・リバー』(2003年)とか、黒沢清の『カリスマ』(1999年)とか、あの頃、暴力の厄介さや怖さを真正面から見つめた映画が結構あった気がします。最近の過剰な暴力を描いた映画は、たとえば『ヒメアノ~ル』等もそうですが、僕個人としては、ちょっと暴力とか男性性の考察が弱いんじゃないかな、という印象だったんですね。暴力を描いているようで、画面に暴力が映っていないんですよ。