社会

模索される「新しい男らしさ」は、マッチョに回帰するのか。いま必要とされている長渕剛成分。/杉田俊介×西森路代【2】

【この記事のキーワード】

杉田 最近、男性学の本がたくさん出てきたのは、戦後的な家父長制的なシステムが崩れたことで、男性が今まで通りの社会的な承認が受けにくくなったために、内省モードを強いられてるからだって思うんですね。戦後的な男性像や父親像に変わる、男性たちの代替的なライフスタイルのモデルが手元にない。最近のカルチャーもその辺りの感じを共有しているのかな。ただ、足元に基盤のない中で男らしさを求めていくと、過剰な男らしさとか、国家の暴力性みたいなものに、割とあっさり取り込まれてしまうかもしれないですね。

西森 それはどういうところに出ていると……。

杉田 保守的な強い男性観に急激に自分をフィットさせようとしたり、あるいはその裏返しとして、自分より立場が弱い人間を叩いてコンプレックスを解消するとか……。よく言われますけど、フリーターとかニートというよりも、中高年の中流層の男性がネトウヨ的な行動にコミットしやすい、という話もありますよね。自分に自信がなかったりするんでしょうね。

西森 そういう中で、長渕は新たなモデルとして存在している部分はあるんですか。

杉田 『長渕剛論』の元となるエッセイを「すばる」(集英社)に書いたとき、結構びびっていました。僕の長渕論は、強さも弱さも男らしさも女々しさも、色んな矛盾を抱えたところが面白いんだよ、というスタンスでした。だから、熱狂的な長渕ファンから苦情や批判が来るのではないか、とちょっと心配していた。でも、「自分も長渕のそういうところが好きだった」とメールやメッセージをくれる人が結構いたんですね。男らしくはなれないけど、男であることを捨てられない、という葛藤の中で、長渕の存在に魅力を感じているファンの人たちも結構いるのかもしれない、と思いました。

――杉田さんは、書く前から感覚としてそれを感じていたんですか? 書きながら長渕剛の矛盾などを感じ始めるようになった?

杉田 僕は中学の頃にいちばん長渕の音楽を聴いていたのですが、彼が急速に愛国化して、日の丸のイメージをまとっていった時には、やっぱり一度、ついていけなくなったんですね。でも、ずっと経ってから、東日本大震災の後に彼が自衛隊の人々を励ますために行ったライブの映像を見て、印象がまた変わった。この人は一貫して優しかったし、自分を変え続けようとしてきたんだ、って。書きながら、その辺の感覚を言葉にしようと思いました。

西森 それは、杉田さんの見方が変わっただけではなく、長渕自身も変わったからついていけると思ったんですか?

杉田 そうですね。確かに、彼が長い時間をかけて、少しずつ自分を変えて、円熟し続けてきたから、僕は長渕さんに出会い直せたのかもしれないです。たとえばやはり愛国的な論客としての小林よしのりという人は、若者に対して最終的に「父親」になろうとするんですね。価値観を上から教え込む、厳しい父親。それに対し、長渕剛の場合、一貫して「兄貴」なんですよね。父親じゃなくて兄貴。対等だけど、ちょっと年上。そういう感じかな。ぎりぎりのところで父権的にはならない。彼がファンからアニキと呼ばれ続けてきたのは、理由があると思います。

西森 さっき杉田さんが、英雄がどろどろのルサンチマンやミソジニーを持っているところからスタートして新しい男らしさに到達できたらいいのにって言われいてましたけど、長渕って、英雄のようになると思えないスタート地点から始まっても、ここまで到達できるんだよ、というモデルになりそうですよね。

杉田 長渕さんは個性の強い人だから、人によって好みは分かれると思うけど、少なくとも、僕にとってはそうでしたね。そういう具体的なモデルになる人間や作品が、たくさん増えればいいですね。選択肢が増えますしね。たとえば、僕自身がものすごい非モテ意識やルサンチマンの塊りなので、花沢さんの原作の『アイアムアヒーロー』にも、この先に、さらに何か新しい突き抜けたマスキュリニティのあり方を見せてほしい、とどうしても期待してしまいます。

第三回に続く

1 2 3

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。