「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」――西加奈子『きりこについて』

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きりこは、決して「きりこ」のことを否定しません。「ぶす」なきりこも、可愛いお洋服を着たいと思うきりこも、誰が作ったのかも分からない「基準」に傷つけられたきりこも、そして、「ぶす」な自分のことが大好きなきりこも、そのぜんぶが「きりこ」なのです。「可愛く」ならなければいけない、「ぶす」だから可愛いお洋服は着てはいけない、正しい「基準」に従わなければならない、「ぶす」のままの自分に、満足してはいけない。そんなふうに、誰もが心の中に抱えてしまう呪縛から、きりこは自由であろうとします。彼女はとてつもない「ぶす」ですが、「ぶす」の自分を受け入れ、愛することができました。しかし、きりこが「ぶす」の自分を否定していたら、どうでしょう。自分自身を「ぶす」という「基準」で否定するということは、同様に「ぶす」である誰か、「基準」にそぐわない誰かを、そのまま否定することにも繋がってしまいます。

ではそもそも「自分」ってなんなのだろう? 数え切れないほど多くの要素――生まれ持ったもの、自らの手で選び取ったもの、そして誰かから押し付けられたもの――が、これ以上ないほど複雑に組み合わさって作られるものではないでしょうか。しかもそれは、刻一刻と変化し続けている。容姿も立場も考え方も、そのときどきで驚くほど簡単に変わってしまいます。そう考えると、誰が作ったのかも分からない外側の「基準」に判断をまかせようとするのは、あまりにも窮屈で乱暴なことだというのが分かります。そしてその「基準」というのも、実際のところ、時代や環境などのさまざまな都合で形を変えていく、不確かなものに過ぎません。「自分」にも「他人」にも、そして「基準」にも、「正しい」姿というものはないのです。だからこそ、いまここにある「自分」というものが、自分とは違う要素の組み合わせである「他人」に、そして社会の「基準」に受け入れられるという保証など、どこにもありません。

「自分のしたいことを、叶えてあげるんは、自分しかおらん。」きりこの言葉は、ある意味とても孤独です。自分のことを本当に知っていて、受け入れられるのは、ただひとり自分だけ、ということなのですから。しかし、ひとりひとりが孤独であるということは、ばらばらで不確かなひとりひとりの存在が、確かに認められているということです。

「ぶす」のきりこは今日も、大好きな、ふりんふりんの可愛いお洋服に身を包みます。誰が何と言おうと、それはきりこの心と体が、何よりよろこぶことだから。そして、そのことを本当に知っているのは、ほかならぬ「きりこ」なのだから。

きっとこの小説を読み終わるころには、読者は「ぶす」という言葉の意味を見失っていることでしょう。そこには、ふりふりの黄色いドレスを纏い、ラムセス二世を腕に抱いて、がちゃがちゃの歯をこぼして笑うきりこの姿が、燦然と輝いているのです。
餅井アンナ

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