子どものささやかな楽しみすら奪う人びとにとって、「貧困」は差別のためのツールにすぎない

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「貧困」は差別のためのツールになっている

そう考えてみると、不安定な生活、困窮状況にある人たちの多くは、母子家庭、傷病者、障がい者、老人など、マジョリティではない人たちだということにも納得がいきます。そうした人びとは、雇用関係を中心になりたつ日本社会の中で想定されてこなかった人びとだからです。近年「貧困問題」はたいへん注目されていますが、これらの人びとは数十年も前から「困窮リスクの高い人たち」として指摘されていました。ここまで深刻な問題になってしまったのは、日本社会が彼らを無視し続け、ときに非難し、ときに邪魔者扱いし、様々な場面で不利な状況に追いつめてきたためです。

「普通に働く」「普通に生活する」ことさえ出来ない社会で、彼らはどうにか日々サバイバルできる方法を探し続けてきました。このような厳しい状況の中で、ささやかな楽しみや趣味を見つけ、日々の困窮生活に光を見出すことの何が問題なのでしょうか? そして「社会がよくなって、自分のように進学を諦める必要がなくなれば」と勇気を出して、顔も名前も隠さずに声をあげた「貧困女子高生」を一体誰が非難できるというのでしょうか?

日本全体が貧しくなっているにもかかわらず、あいかわらず「貧困当事者を非難する」ことがまかり通ってしまうのは、自身を「マジョリティ」と考える人びとがまだまだ「貧困」を自分の問題として意識していないからです。そして彼らにとって「貧困」とは、「自分たちとは違う」人びとに貼りつけるためのレッテルであり、差別を可能にするツールなのです。だからこそ彼らは、現実の貧困問題に注目するのではなく、「どの貧困が正しいか/間違っているか」という「貧困イメージの選別」をし続け、それにあてはまらない貧困当事者を非難し続けるのです。こうした状況が変わらない限り、貧困問題は永遠と解決しないのではないでしょうか。日本人の大多数が貧困に陥ってからでは遅いのです。貧困を他人事と捉えるのではなく、自分たちに直接関わりがあり、自分たちが本気で取り組まなければ決して解決しないということに気づかなければなりません。

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