“49才”といわれる橋本マナミ似の美女。女性従業員の中で一際目を引いた。
(『女性セブン』2016年9月26日・10月6日合併号/「新聞・テレビが報じないこれが全内幕 高畑裕太『49才といわれる被害女性』あの夜の因縁」の見出し)
強姦致傷容疑で逮捕された高畑は、女性と示談し、不起訴となり釈放された。彼の弁護士がFAXでマスコミ各社に配布した説明には「仮に、起訴されて裁判になっていれば、無罪主張をしたと思われた事件であります」との解せない一文があった。この一文は、「ああ、もしかして、合意だったってことなのかなぁ」という解釈を生み出してしまう。というか、それを狙った一文に違いない。「無罪だ!」と主張するのではなく「無罪主張をしたと思われた事件であります」と漂わせることで、「真実は真逆なのか」と思わせる。この声明は、世論を刺激するテクニックを有している。
不起訴後に発売された「女性セブン」は、「もしかして」の部分を膨らませる記事を掲載した。散々批判された、女性の容姿が優れていたことを知らせるやり口を再び投じ、「“49才”といわれる橋本マナミ似の美女。女性従業員の中で一際目を引いた」と開き直った、というか、振り出しに戻すような見出しをつけている。被害者女性について、事件から10日後にあるパーティに出席していたとし、「男性の出席者」から「いつもどおりの笑顔で明るく振る舞い、記念撮影には『イェーイ』とピース写真で応じたりして、それほどショックをうけていないのかなぁと思いました」とのコメントを取り、雑誌の表紙には「10日後の宴会でイェーイ写真」と刻んだ。とにかくただひたすらに落ち込んでいなければ被害者とは言えない、という見識をお持ちなのか。この写真が本人だとして、なぜ、笑顔で写真に写ってはいけないのか、説明が欲しい。
その写真を見た記者の感想として、「赤と黒を配したノースリーブのドレス姿の彼女は、なるほど30代にしか見えない美しい女性だった」と書く。「裕太が逮捕直後から母親に『強姦はしていない』と訴えていたのかもしれない」と書いたり、「仮に裕太さんが“被害者”だとしても、女性側を訴えることはできません」と弁護士のコメントを入れこんだり、弁護士が「仮に……」としたのと同様、仮定の話を積み上げることで「もしかして」を肉厚にしていく。記事として巧妙に断定を避けているので、あたかもバランスのとれている記事にも読めてしまうのだが、示談が済んだ後に、こうして女性への「もしかして」が高められていく。仮定の積み上げに過ぎないのに、表紙および大見出しでは「新聞・テレビが報じないこれが全内幕」「あの夜の因縁」と断定している同誌のやり口はただただ非道である。
この連載を通じて、散々引っ張ってきたいくつもの発言に傾向があるとすれば「女にもその気があるんじゃないか」という願望を満たすために、好都合な解釈を必死に重ねること。童貞の中学生でも思わないようなレベル。こういう願望が着々と、オヤジ雑誌のみならず方々に染み渡っている。「女にもその気がある」方面の願望が常にあちこちで息をしているし、今件でいえば、女性週刊誌がそれを先導しているのだから情けない。
(武田砂鉄)