連載

私は立ちションがしたかった。男子と女子を「作る」、学校教育の『かくれたカリキュラム』

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 『かくれたカリキュラム』とは、学校教育を受ける過程において、意図せず生徒に刷り込まれる意識、メンタリティー等を差す。教師の指導方法や、学校のランクによって、生徒個人の性格および価値観(たとえば、特別意識や劣等感)は「作られる」。「男の子」「女の子」の社会的な役割分担も潜在的に刷り込んだ結果、特定的なジェンダーの型に人間を誘導すると、同説は説く。

 男女性にまつわる『かくれたカリキュラム』について、いくつかの文献を参照していく。マイラ&デイビッド・サドガー著『「女の子」は学校で作られる』(時事通信社、1996年、川合あさ子訳)によると、『学校は女子をだましている』(本書より引用)。生徒を無意識的に「男の子」「女の子」のジェンダーの型に誘導しようとする学校教育は、女子の可能性を自ずと狭めるとする論旨である。

 また、木村涼子著『学校文化とジェンダー』(勁草書房、1999年)にも、『女は生まれながらにして「女」なのではなく、社会が要求する「女」としてつくられる』(本書引用)と明記されている。木村氏いわく、学校は、本来、男女対等に学術教育を提供する制度であるはずなのに、内情は不平等性を増長させる矛盾を孕んでいるとのこと。

 同書は、「生徒会会長は男子が望ましい」「副会長は女子が望ましい」「男子の方が、女子よりも、積極的に手を挙げて発言する」「男子同様に叱ると、女子は泣いてしまうので指導が難しい」等、様々な項目の実地アンケートを教師と生徒を対象に行ったうえで、“男が主・女が従”、ひいては家父長制の肯定や良妻賢母の推奨を暗に刷り込む学校教育の在り方を解明している。

男女らしさのバグ

 女性と限らず、男性もまた『かくれたカリキュラム』による洗脳を受け、「男として」作られる。「女らしさ」も「男らしさ」もそこから派生した概念であり、誰かに強要されたわけでもないのに自然と「らしさ」に誘導されていく。

 なんと薄気味悪いシステムだろうか。これでは人間は、カリキュラムの傀儡ではないか。しかもそのカリキュラムは「かくれている」。霊障による呪いや、潜伏型のバグを想起したところで、おそらく、少女時代の私をうんざりさせたものの正体がこの『かくれたカリキュラム』の持つ不気味な強制力だったのだと思うに至る。

 トイレの別置やランドセルの色識別等は、男女には差異があることを“刷り込む”初歩的なジャブで、ふと気付いた時には、「女の子らしさ」の型に嵌められている。「女子は積極的に発言しないものである」との傾向に基づき、教師は男子ばかりに発言を求める。当方は、「言いたいことは、言う」人間であるため、予定調和をぶっちぎって積極的に手を挙げ、発言すると、決まって教師や同級生に「女子なのだから、もっとおしとやかに」「女のくせに、男を差し置いて出しゃばるな」と窘められた。

 私は女である前に、人間だ。「女バイアス」など知ったことか。頭に来たので、不本意な小言に遭遇する度に「うるせえ」と怒号する。そんな私を、男子生徒は「おとこおんな」と揶揄う。女子生徒は「女の子らしくしないとモテなくなっちゃうよ」と諭す。小学校の先生には「女性である自覚がなく、我が強いため、将来的に社会に適応できない懸念がある」と心配される。家に帰れば、娘である私を「ナガコ一等兵」と呼び、「おまえは男の中の男だ。大日本帝国万歳!」と泥酔しがてら叫ぶ父がいる。散々である。

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