連載

私は立ちションがしたかった。男子と女子を「作る」、学校教育の『かくれたカリキュラム』

【この記事のキーワード】

 そもそも私は、父に男として「作られた」。その前段があったからこそ、次のステップとして遭遇した「女の子を作る」学校教育カリキュラムに違和感を覚えたのである。父が私に「男たる者」を強要しなければ、学校に提唱される「女の子らしいコード」にすんなりと順応していたのかもしれない。

 とはいえ、男子に恋心も抱けば、胸も膨んで来ると、自分が女である現実を否応無しに認めざるを得なくなる。しかし、立ちションも発言もしたい。それが「私らしさ」であり、どこの誰が定めたのかも不明瞭な「男の子らしさ」「女の子らしさ」のステレオタイプな概念に同調して差し上げる義理など、私にはない。

 男女には確かに傾向はあるが、「男女らしさ」に明確な定義はない。それはあくまでも時代性や家族・教育環境によって“刷り込まれた”価値観や印象の類いであり、個々の解釈にはばらつきが生じる。ジェンダー観は時代とともに変容するため、世代によっても解釈が異なる。つまり、自分が思っている「男女らしさ」は人間全員に当てはまる価値観ではない。その点を考慮せず、他者を、自分が思っている「男女らしさ」の型に嵌めたうえでコントーロールしたがる行為は、基本的に無礼である。自分同様の価値観をもたない人間が存在することを想像できない人間を作り上げる洗脳効果が『かくれたカリキュラム』に内在しているようならば、その“刷り込み”はバグである。

「家庭科」の別修と共修

 男性による家事・育児参加の推奨や、女性の社会参画等、古のジェンダー・ギャップを刷新する“制度”が国政レベルで整備されつつある現在。時代性や国際的なジェンダー観に合わせた結果論だろうか、昭和後期に生まれた私がよく知る『かくれたカリキュラム』の一部は是正された。

 たとえば「家庭科」。1999年に上梓された『学校文化とジェンダー』によると、小学生の頃は男女共に「家庭科」の授業を受けた生徒が、中学校に入ると、男子は「技術」、女子は「家庭科」を別修することとなる。これにより、男女の社会的役割分担および「男らしさ」「女らしさ」の観念を刷り込まれる。

 1994年には、中高での「家庭科」の男女必修化が実施されたが、同年に20歳になった私の世代やより年輩の方々にとって、「家庭科」は「女の教科」である。中高で「家庭科」の授業を受ける必要のなかった男子生徒は、「家庭のこと(大雑把にいえば、家庭科)は女の仕事。男の自分は門外漢」と捉える価値観を「作られる」。

 結果、彼らは「男女にはジェンダー・バイアスがあって当然。男は働いて、女は家事育児をする。それが男女のしかるべき役割分担である」との価値観をもつ大人として仕上がり、その主張を実社会に反映させていく。現代社会の風潮を前に、彼らが主張する男女の役割分担は、あまりにも前時代的で「生産性がない」わけだが、彼らがそう主張するに至った背景は、ひとまず理解できる。

 他方、男女必修以降の世代は、別修世代に生じたジェンダー・ギャップの解消を目指す現代教育を受けている。それは、男女の役割分担によって個々の可能性を制限する教育を撤廃し、多様かつ自由な選択肢の幅を広げる教育方針へと舵を取り直した、前向きな結果であると推測する。

 別修世代と共修世代の間には、ジェンダー観の差異がある。よって若年層が、「昭和生まれのおっさん、おばさんの言うこと成すこと、前時代的なジェンダー・ギャップを増長するばかりで、迷惑だ」と主張する理由も理解できる。実際、その通りだとも思う。

 しかし、両者には「時代や学校の教育を通じて、価値観を作られた」という共通点がある。よって、どちらの価値観が「正しいか」を証明する目的での論戦を繰り広げたところで、言語の異なる者同士の口喧嘩同様に、無益だ。両者ともに『カリキュラム』の傀儡であるとするならば、喧嘩両成敗。ともに解放されるために、協力し合って倒すべき敵は『かくれたカリキュラム』由来の幻想のみである。

 さて、どうするか。本コラムでは今後しばらく、この掘れば掘るほど根が深い『かくれたカリキュラム』の影響力について追究し、いずれ打開策を導き出したいと考える。引き続きお付き合いいただきたく、何卒よろしくお願い申し上げたい。

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