出産を恐れるのは誰だ? 『光り輝く世界』と『フランケンシュタイン』【女とSF】

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Photo by Insomnia Cured Here from Flickr

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 SFはどちらかと言えば男のものだ、なんてイメージはないだろうか? サイエンス・フィクションはその名の通り科学やテクノロジーを主題にしたジャンルであって、当然女やジェンダーの関心にとって優先度が高い分野ではないようにも思われる。けれどもちろんフェミニズムとは、「女」にまつわるさまざまな「当然」を問い直すことを通じて(例:女なので「当然」仕事よりも家事や子育てを優先すべき)、より公正な社会を目指す学問・運動なのだから、女とSFの関係もそんなに簡単なものじゃ決してない。

 これから何回かにわたって、「女」にまつわるSF小説とその背景の歴史を辿ることを通じて、「女にとってSFはなぜ、そしてどれだけ重要なんだろうか」を考えてみよう。SFにとって女あるいはジェンダーの問いがどれだけ重要かなんてことは、ここ何十年かの主要なSF賞の受賞者リストを見るだけで簡単にわかる。でも逆に、フェミニズムにとってのSFというものの重要性は、十分に理解されているとは言いづらい気がする(ダナ・ハラウェイ、という名前を聞いて「あ、懐かしい」と思ってしまったあなた、そう、その感覚です)。女、あるいはフェミニズムにとって、SF小説はどれだけ切実で重要な問題を提示し、表現するための優れた場であった(またそうあり続ける)んだろうか? それを考えるために、まずはフェミニストSFの「起源」へとさかのぼってみよう。

最初のフェミニスト・ユートピアSF?:キャベンディッシュ『光り輝く世界』

 じっさい、SFにおけるフェミニズムの歴史は深く長い。そもそもSFとは何か、っていうのも難しい問題だけど――『竹取物語』(異星人もの)や『浦島太郎』(時間旅行もの)だってSF的に読める一方、今あるジャンルとしてのSFはH.G.ウェルズなどの19世紀末の小説から始まった、なんて考えもある――、一般に英米圏では1666年に書かれた『光り輝く世界と呼ばれる新世界についての記述』がフェミニズムSFの起源とされている(邦訳は『ユートピア旅行記叢書』第2巻(岩波)に収録)。

 著者マーガレット・キャベンディッシュはニューカッスル公爵夫人にして科学者・哲学者という知識人。本書『光り輝く世界』は、もともと彼女の『実験哲学に関する所見』という自然哲学の本の補遺として出版されたことからも分かるように、当時の学問や政治・宗教の制度に対し介入しようとする、優れて学究的な小説――というよりは、『ガリバー旅行記』のようなある種の政治的な寓話になっている。

 物語は、航海中のとあるレディが北極の向こうにある「光り輝く世界」なる別世界に漂着するところから始まる。皇帝と結婚し女帝になった彼女は、夫からこの国の全面的統治権を譲り受ける。「光り輝く世界」では学問・政治・宗教はもとの世界とは違う形で発展していたのだが、彼女はより良い統治のために、これらがなぜ今ある形で発展したのか、そしてどうあるべきなのかについて、臣民である喋る動物や精霊と長い議論を交わす。自らの教えを書き記したいと考えるようになった彼女は、古典・現代のいかなる(男性の)作家も筆記者として相応しくないと悟り、作者キャヴェンディッシュ自身の霊魂を呼び寄せる。一種の「シスターフッド(女性同士の連帯)」で結ばれた二人は、他の(男性)思想家・政治家の考えに拠るのではなく、自分たち自身の理性をもとに、「光り輝く世界」のルールを作り出す……というのが第一部の大まかなあらすじ。それに続く短い第二部では、祖国が他国の侵略を受けたことをきっかけに女帝が霊魂の形で元の世界に戻り、侵略してきた国を征服するどころか、やがて世界全体を支配していく様子が描写される。

 政治的な寓話として読んだ場合、「光り輝く世界」には「一つの言語、一つの宗教、一つの政府」だけがあるべきで、それこそが平和と繁栄をもたらすのだ、という女帝の考え方は大英帝国を支えた帝国主義の価値観そのものだ(第二部の展開はまさにその裏付け)。一方で、

「私はできる限り独自な私でありたいと思います。[…]他人に真似されるのは嫌だし、避けられるなら避けたいけれども、誰かの真似をするくらいなら誰かに真似される方がまだましです。様式に従って素晴らしい人物になるよりも、自分自身の独自性を選んで悪くみられる方が私の性に合っています」

 と精霊に向かって語るように、女帝はそのフェミニスト的な個人主義の生き方を通じて、当時の自然哲学や社会哲学の制度・体系にメスを入れるものであることも強調しておきたい。じっさいページ数で言えば、本書のほとんどは中盤の女帝と霊魂の学問・政治・宗教に関する思弁的な対話によって占められているわけで、作品の主眼は当時極めて限定されていた女性の学問・教育への参入そのものにあると言ってしまってもいいだろう。

 そうしたわけでこの本は最初の「フェミニストSF」あるいは「フェミニスト・ユートピア」とみなされるようになった。けれど個人的には、ユートピア小説としての本書には(中盤の長い自然哲学的な問答が退屈なこと以外にも)不満がないわけでもない。それは、彼女がもといた現実の世界と、この「光り輝く世界」とがほとんど完全に断絶されていて、女帝とキャベンディッシュただ二人が霊魂の形で行き来することしかできないからだ。作者にとって「光り輝く世界」が(帝国主義的な価値観に基づくにせよ)平和と平等に満ちた、ひょっとしたらフェミニスト的な理想郷であるとして、私たちはどうやったらそこに辿りつけるのかというプロセスは、残念ながら本書からは抜け落ちている。イギリスにおいて女性が選挙権を得る200年以上も前に書かれた『光り輝く世界』において、市井の女性による直接的な社会変革はあくまで「空想小説」でしかなかったのだ。

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