皇室出身者でもなく、男でもない女が皇室の最高権力者になった瞬間 西園寺寧子の数奇な人生

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Photo by Alejandro Bayer Tamayo from Flickr

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明治維新以後の皇室典範では、天皇は常に男性であり、死ぬまで天皇であり続けることになっている。今この国で生きている人間にとって、それは当然の話で、女性が皇位につく姿は想像しがたいだろう。しかし「男性から男性へ、死によってバトンタッチされる」天皇の位は、近代になってから固定化された概念だ。前近代には「天皇は死ぬまで天皇」という決まりはなかったし、女性の天皇もわずかながら存在した。

今回はそうした女性たちの中でも、ひときわ存在感を放つ人物を紹介したい。西園寺寧子、又の名を広義門院だ。西園寺寧子が異例なのは「本来、皇室出身ではないのに」「皇室の最高権力者になった」唯一の「女性」という点だ。「皇室の最高権力者」、すなわち「治天の君」である。かつて名だたる天皇や上皇が、王朝の支配者としてそう位置付けられてきたその地位に、女性が立ったのだ。

ありえないことである。たとえ男性であっても皇室の出身ではない人間が皇室の最高権力者になることは考えられないし、皇室出身であっても女性が朝廷に君臨することは甚だ難しい。

西園寺寧子が「治天の君」となった背景には、南北朝時代という激動の時代が関係していた。いうなれば彼女は、時代の思惑によって、半ば無理やりに天皇にさせられた人物でもあるのだ。彼女が生きた南北朝時代を覗いてみることにしよう。

上皇を奪われ、錦の御旗を掲げられない北朝

南北朝時代は、ざっくりと言うなら「日本史史上最大の内乱」期だ。

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇政権から離反した足利尊氏は、1336年に光明天皇を擁立する。後醍醐天皇側の南朝、光明天皇側の北朝は以後、1397年に合一するまで争い続ける。この時代を南北朝時代と呼ぶ。足利尊氏が擁立した光明天皇の母親が西園寺寧子である。

話は朝廷分裂から20年ほど飛ぶ。

1350年〜1352年頃、室町幕府はカオスの渦中にあった。初代将軍・足利尊氏と、その弟であり副将軍と目されていた足利直義の間の対立が深まり、「観応の擾乱」という内乱が発生していたのだ。尊氏は直義討伐を優先するため、南朝との講和を試みていた。この講和は南朝にとって非常に有利なものであり、北朝が担いでいた崇光天皇と皇太子の直仁親王は廃された。その後、尊氏は鎌倉にいる直義を討ち、息子の義詮に京都を任せて、しばらく鎌倉に留まっていた。

南朝は、尊氏の兵力が鎌倉と京都に二分されたタイミングを好機と捉え、即座に鎌倉と京都へ侵攻。それぞれを攻め落とす。京都防衛戦に大敗を喫し、近江(いまでいう滋賀県のあたり)へと逃げ延びた義詮は、その際に大きなヘマをやらかしてしまった。北朝の3人の上皇(光厳上皇、光明上皇、崇光上皇)と廃太子(直仁親王)を京都に置き去りにしてしまったのだ! 結果、彼らは南朝に連れ去られてしまう。

奪われたなら奪い返せばいい……とはいかない。中世では“公戦”と“私戦”の区別が非常に重視され、天皇からの「◯◯は朝廷の敵であるので倒せ」という命令のない戦は忌避されていた。天皇を担いでいることの証である「錦の御旗」がなければ、兵も思うように集まらないのだ。これは混沌としていた南北朝時代であっても同様である。

前述の通り、尊氏は直義を討つために南朝と和睦し、天皇および皇太子を廃していた。その上、上皇三人と直仁親王を連れ去られてしまったのでは、奪い返したくても「錦の御旗」として頼れる人物が誰もいない。八方塞である。

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