2010年に公開された『ヒーローショー』は、当時、若い女性からの人気が上昇していたお笑いコンビ・ジャルジャルの二人と、『ガキ帝国』『岸和田少年愚連隊』『パッチギ!』の井筒和幸監督がタッグを組んだことで注目されました。
物語は、お笑い芸人で、いつかはM-1グランプリに出たいと夢見るユウキ(福徳秀介)が、元相方の剛志(桜木涼介)の誘いで、ヒーローショーのバイトをするところから始まります。ところが、ヒーローショーで司会のバイトをしている剛志の彼女を、同僚のノボル(松永隼)に寝取られたことを剛志が知り、ショーの最中に殴りあいの喧嘩をしてしまいます。喧嘩に負けた剛志は知人を使ってノボルに金銭を要求しますが、ノボルも元自衛官で配管工の勇気(後藤淳平)に協力を仰ぎます。彼らが対峙したとき、それぞれの暴力性が爆発してしまうのでした。
集団内で広がる暴力性のリアリティ
公開時にも見たこの作品を再び見て頭に浮かんだのは、messyの連載で書いた『ディストラクション・ベイビーズ』と『HiGH&LOW THE MOVIE』でした。
地方都市で生きる若者たちの暴力を描いたという意味では『ディストラクション・ベイビーズ』を思い出させます。『ディストラクション』では、泰良の暴力に理由が見えないことが不気味にうつりましたが、『ヒーローショー』の勇気やノボルたちの暴力性は、きっかけこそ一人の女性を寝取ったことに端を発するものの、その後は、何か行き場のないエネルギーに火が付いたとしかいいようがなく、『ディストラクション』とは違った意味で、やっぱり理由がなく見えました。
現実にも、被害者の少年が埼玉の河川敷で知人の少年らに暴行された後、半身を埋められ、その後溺死した事件や、川崎市で起こった中1男子生徒殺害事件など、近年、集団での暴力事件を耳にします。そこには必ず首謀者と仲間が存在していますが、きっと誰もが暴力性をすぐに爆発させたわけではなく、中心人物がいて、「ここで引いたら自分もやられるのではないか」という危機感を覚えたり、『ディストラクション』でも描かれたように、暴力性に感染したりしたことで、悲惨な結果を生んでしまったのではないかと予想できます。
『ヒーローショー』には、暴力にとりつかれた者、おびえが頂点に達して暴力に加担してしまう者、暴力の中にあっても他人事のような者、恐怖を感じつつも引くことができない者などが描かれていて、実際に集団で暴力が振るわれる際のそれぞれの人物の気持ちの変化は、こんなものかもしれないと思わせるリアリティがありました。
暴力に溺れた者はヒーローになれない
また、この作品にリアリティを覚えるのは、東京まで車で行ける範囲にある、実際の地方都市で起こっていることだと感じさせる点も大きいでしょう。作品の中では、山中湖、石垣島、府中など、様々な地名が繰り返し取り上げられています。
一方、『HiGH&LOW THE MOVIE』は、徹底的にどこで起こったのかを感じさせない映画でした。そのことが、この映画がフィクションであり、そこで描かれる暴力を見ても、観客に痛みを感じさせないもっとも大きな理由だとわかります。「無名街」や「SWORD地区」という実際には存在しない土地で起こった出来事だからこそ、琥珀に死ぬほど殴られた九十九を見ても、そこまで「痛そう……」と思わずに済むのです。
『ヒーローショー』では、架空の街と実在の街のように、フィクションとリアルの対比を感じさせる象徴的なシーンが出てきます。それは、ノボルと剛志のヒーローショーでのケンカのシーンでした。
ヒーローショーには、悪の化身のような存在が、女性や子供などを捕らえて、正義のヒーローがそれらを助けるために悪と戦うという筋書きがあるわけです。その戦いには、確実に暴力が存在しているはずなのに、うまく無臭化、形式化されています。ところが、ヒーローショーの最中に本物の喧嘩(馬乗りになったり鈍い音とともに血が出たりする)が始まると、同じ戦いであるはずなのに、会場の空気は一変して、子どもは泣き出し、親は子供の目を覆い、そこを立ち去ろうともするのです。
このシーンを見て、暴力の描かれ方には、形式化されたものと、リアルなものがあり、『HiGH&LOW THE MOVIE』は前者、『ディストラクション・ベイビーズ』は後者と、はっきりと分けられることに気付きました。
リアルな暴力映画は、だいたいがラストシーンで観客をほったらかしにしがちです。だからこそ、どんよりとしたいやーな気持ちになる。一方、形式化された暴力映画は、だいたいはっきりしたオチとセットになっていて、フィクションとはっきりわかっているため、爽快感すら感じさせることがあります。
井筒監督は、公開当時のインタビューで「暴力だけをファッションにしてる子供騙しの嘘っぽい映画が多過ぎるよ、ここんとこ。何より、今の時代の若者や子供たちの無意識が、深層心理こそが、暴力への衝動を呼んでるのかも知れないけど、映画こそ暴力にリアリティが必要だし、映画の中にこそ大衆の心の欲求や真実が隠れている」(ぴあ映画生活)と語っています。
リアルな描写でいやな気分にさせ、そして何を暗示しているかわからないラストで観客を突き放すことで、暴力とは何かを考えさせようとしているわけです。そう考えると、『ヒーローショー』というタイトルは皮肉にも思えます。この映画の中で暴力をふるった若者たちには希望が描かれていませんでした(ラストの歌と景色に希望を感じることはちらりとはできますが、それもどうなのか……)。「彼らは決してヒーローになれない」と描くことが、監督の良心なのでしょう。