暴力に溺れた者に希望はないと描くことが監督の良心なのか。『ヒーローショー』を見て今、思うこと

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暴力に溺れた者はヒーローになれない

また、この作品にリアリティを覚えるのは、東京まで車で行ける範囲にある、実際の地方都市で起こっていることだと感じさせる点も大きいでしょう。作品の中では、山中湖、石垣島、府中など、様々な地名が繰り返し取り上げられています。

一方、『HiGH&LOW THE MOVIE』は、徹底的にどこで起こったのかを感じさせない映画でした。そのことが、この映画がフィクションであり、そこで描かれる暴力を見ても、観客に痛みを感じさせないもっとも大きな理由だとわかります。「無名街」や「SWORD地区」という実際には存在しない土地で起こった出来事だからこそ、琥珀に死ぬほど殴られた九十九を見ても、そこまで「痛そう……」と思わずに済むのです。

『ヒーローショー』では、架空の街と実在の街のように、フィクションとリアルの対比を感じさせる象徴的なシーンが出てきます。それは、ノボルと剛志のヒーローショーでのケンカのシーンでした。

ヒーローショーには、悪の化身のような存在が、女性や子供などを捕らえて、正義のヒーローがそれらを助けるために悪と戦うという筋書きがあるわけです。その戦いには、確実に暴力が存在しているはずなのに、うまく無臭化、形式化されています。ところが、ヒーローショーの最中に本物の喧嘩(馬乗りになったり鈍い音とともに血が出たりする)が始まると、同じ戦いであるはずなのに、会場の空気は一変して、子どもは泣き出し、親は子供の目を覆い、そこを立ち去ろうともするのです。

このシーンを見て、暴力の描かれ方には、形式化されたものと、リアルなものがあり、『HiGH&LOW THE MOVIE』は前者、『ディストラクション・ベイビーズ』は後者と、はっきりと分けられることに気付きました。

リアルな暴力映画は、だいたいがラストシーンで観客をほったらかしにしがちです。だからこそ、どんよりとしたいやーな気持ちになる。一方、形式化された暴力映画は、だいたいはっきりしたオチとセットになっていて、フィクションとはっきりわかっているため、爽快感すら感じさせることがあります。

井筒監督は、公開当時のインタビューで「暴力だけをファッションにしてる子供騙しの嘘っぽい映画が多過ぎるよ、ここんとこ。何より、今の時代の若者や子供たちの無意識が、深層心理こそが、暴力への衝動を呼んでるのかも知れないけど、映画こそ暴力にリアリティが必要だし、映画の中にこそ大衆の心の欲求や真実が隠れている」(ぴあ映画生活)と語っています。

リアルな描写でいやな気分にさせ、そして何を暗示しているかわからないラストで観客を突き放すことで、暴力とは何かを考えさせようとしているわけです。そう考えると、『ヒーローショー』というタイトルは皮肉にも思えます。この映画の中で暴力をふるった若者たちには希望が描かれていませんでした(ラストの歌と景色に希望を感じることはちらりとはできますが、それもどうなのか……)。「彼らは決してヒーローになれない」と描くことが、監督の良心なのでしょう。

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