「若者は…」「老害は…」の世代間ギャップ。諸悪の根源は、学校教育に“刷り込まれた”価値観の違いではないのか?

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ナガコ再始動

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 男女共同参画社会の実現が急務である現在。しかし、国政が「男性の育児休暇取得」を推奨したところで、街場の年輩者層からは「いやいや、子育ては女の仕事。男が加担するべきではない」と主張する声があがる。保育園の待機児童問題についても、本筋の論点とは異なる角度より、「生後間もない子供を保育園に預けて自分は働くという発想自体が、母親として失格」といった“老害”発言が飛び交う。

 現実問題として、「そうしなければ生活が立ち行かない」からこそ試みられる制度是正に対し、“老害”は、自分たちにとってなじみ深い男女の役割分業思想に拘泥する一方で、問題解決に協力する構えを見せない。むしろ、解決を阻止している感もある。ゆえに“老害”というわけで、現代社会を生きる若者たちは「いつまでも昭和の価値観が通用すると思うなよ」と怒りを露にする。かくして、各々の価値観を形成する時代背景や教育指針が異なる両者は、いつの世も、「差異」を根拠に対立する。

 ランドセルの色が男女別に指定されていた我々40代と、個人が好きな色、デザインを選べる環境に置かれた10代とでは、当然ながら「ジェンダー観」は異なる。我々の世代は、ランドセルや名札の色識別、男女別修授業(男子は「技術」、女子は「家庭科」)等、ジェンダーのギャップを強調する学校教育の「かくれたカリキュラム」によって、「ギャップありき」の価値観を“刷り込まれて”いる。他方、若い世代は「前時代的なギャップを解消する」教育を受けている。

 いずれの世代も、時代や学校教育を通じて、価値観を“作られた”という側面がある以上、一概に「ゆとりの若者がだらしない」「老害は悪しき存在」などと断罪できるものではない。諸悪の根源は教育にあり。というわけで、前回より学校教育の「かくれたカリキュラム」の実態や影響を探り始めた次第である。今回は、1974年生まれの筆者が小学生の頃の思い出を振り返るところから始めてみたい。

先生の言う通り

 小学校の全校集会で「全体、右に倣え」の号令とともに児童全員が右を向く中、1人、正面のまま「なんで?」と真顔で質問し、顰蹙をかったことがある。

 先生は「なんでもなにも、先生が号令をかけたら、児童はそれに従うものである」と説明するが、当方はまったく納得がいかない。「だから、なんで従わなければならないのか。理由を教えてくれなければ、従いようがない」と再びごねた。私の感覚では、他者が私にとある行動を強いる場合、まずは根拠や理由についての説明があって、その提案を受けるか否かを決めるのは私の意志、納得できないようなら従わない、以上の手続きがあって然るべきなのだ。が、先生は途中の工程を華麗にすっ飛ばし、ただただ「従え」と命じる。

 いやいや、おかしいだろ。理由すら分からない命令に対し、黙々と従う人間などこの世にいるわけないじゃん。と思い、周囲を見渡すと、児童全員が素直に右を向いている。合点がいかない私は、同級生にも「なんで?」と質問すると、「先生に言われた通りにしないといけないから」とのこと。「だから、なんで?」と食い下がると、「そういうものだから」という不明瞭な答え1つを突き返され、ようやく閉口したものだ。

 もっとも、冷静に考えてみれば、1学年6クラスで約300人、全学年で約1800人もいる児童全員をスムースに整列させるためには、号令の決まり事ぐらいあって当然である。なにしろ、私の世代は第二次ベビーブームとあり、年間出生数は200万人を超える(内閣府HP「出生率」データ参照)。よって、「大人数の整列、集散を合理的にオペレートするために、まずは全員、右へ倣え」とでも言ってくれれば納得するのにと考えたことが、懐かしく思い出される。

 理屈っぽい性格上、「全体行動に従う意味」を問うてしまった私とは違い、優秀な児童諸君は意味も理由もなくとも「従える」。なぜ「従える」のか。親や大人に「先生の言う通りにしなければならない」と教育されているからだ。では、なぜ「言う通りにしなければならない」のか。オペレーションの合理性もさることながら、児童の校内生活や登下校時の安全を第一に考慮しなければならないからだ。初等教育を受ける児童は、まだまだやんちゃ盛りの子供だけに、共生のルールを教え、そのルールを「先生の言う通り」に守らなければ危険な目に遭うと指導する必要がある。

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