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「若者は…」「老害は…」の世代間ギャップ。諸悪の根源は、学校教育に“刷り込まれた”価値観の違いではないのか?

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 また、和をもって尊しと為す美徳を愛する日本人は、“個”よりも“集団”の協調を重んじると言われて久しい。この協調性というものは、集団の人数が多ければ多いほど需要が高まる。よって「全体、右に倣え」の全体主義的オペレーションが昭和後期の世でも有効活用され、オペレートされる側にも、すんなりと「従える」に足る精神性を誘導する教育が施された。

 だから「先生の言う通りにしなければならない」と子供に教える親の世代はといえば、概ね、戦後間もなくの第一次ベビーブーム生まれ、いわゆる団塊世代である(同出生率データによると年間270万人)。親の世代は、戦中の軍国主義教育の“刷り込み”よりなかなか抜け出せないその両親や、古き良き全体主義をこよなく愛する教員による指導、教育を通じ、「お上が右と言ったら、右を向け」との指令にすんなりと従う精神性を培った者も多いのではないかと推測する。思想的に儒教の影響を濃く受け、基礎的に「目上の者(あるいは師)を尊びなさい」と言われて育った者の中には、師の命に忠実に従う精神性の持ち主もいたのだろう。

 実際に我が父も戦後生まれの軍人かぶれとして、「全体、右に倣え」の精神を愛していた。まったく右に倣おうとしない私に対し、「おまえは、俺のいうことには従うのに、なんで右には倣わないのか」と文句を言ったが、答えは明白だ。私は父が好きだから「父に倣う」。それは自ら能動的に選択した活動であって、相手が全体や先生となれば話は別だ。よって「パパだから倣うのだ」と強く訴えたところ、鬼軍曹は珍しく照れ笑いを浮かべていた。誰かに従うか否かは、私が決めることである。いくら父の命でも譲れないものはあるのだ。

“個”に集中する教育

 団塊世代も、我々団塊ジュニア世代も、その親や学校教育に“刷り込まれた”価値観を継承している。しかし、両者が子供時代を過ごした社会背景には大きな差異がある。前者は幼少期より、国民が一丸となって焼け野原からの復興を目指す社会を目の当たりにしている。つまり、大きな1つの目的に向かって“集合”の力を結束させることが、時代の使命であった。

 我々後者はといえば、高度成長期の恩恵に授かり、経済的に豊かな生活を約束されていた。エリート意識や学歴主義の偏重による受験競争が盛んに行われ、当方も漏れなく、小学校2年生より週5回も進学塾に通わされる嵌めに陥った。

 勉強は“個”の孤独な闘いである。よって、どうしても“全体”を重視する意識が薄れる。他者は、協力し合う存在ではなく、「蹴落とす」対象である。自分にとって、自分以外の人間は全員ライバルだ。と、勇ましい気持ちで塾の模試を受けたところ、受講生30000人の中で15000番くらいという凡庸な成績を叩き出し、「トップでもなければ、ビリでもない自分は、なんぼの者でもないのだな」と痛感したものである。

 こうした経験を通じ、視野が“個”に集中した者の中には、「一丸となる意味を問う」私のように、小学校生活における画一的な団体活動に疑問をもつ者もいたのではないだろうか。もっとも私の場合は単に性格のせいでもあるのだが、俗に「人間が意味や理由を考え始めるのは、ゆとりがある証拠」という通り、豊かな時代ならではの視点であったことは間違いない。団塊世代が小学生だった頃は、“個”にかまける暇などなかったのではないかと想像する。

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