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「若者は…」「老害は…」の世代間ギャップ。諸悪の根源は、学校教育に“刷り込まれた”価値観の違いではないのか?

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 もっとも、競争に慣れている我々の世代の方が、「ゆとり世代」と比較して、打たれ強い傾向にあるとは思うが、だからといって相対的に彼らを弱いと看做すことも若者に対して失礼である。なにしろ「ゆとり世代」が教育されて来た価値観は、「相対」ではなく「絶対」であるし、競争を知らない強みもあれば、相対評価に振り回されない“個”の力が国際社会にて活かされることもあるだろう。

 かくいう我々の世代もまた、食べるものにも着るものにも苦労した戦後の復興期を生き抜いた方々より見れば、「飽食で裕福なゆとり世代の先駆け」であって、「おまえらのお勉強戦争なんか、生温いママゴトだ」と一笑されて然るべきである。その団塊世代を差して、戦争体験者の方々が、「いや戦後に生まれたおまえらだって、戦争を知っている我らに比べたら、生温い。こちとら命をかけた、正真正銘の生存競争の世を生きたのだ。爆撃されない分だけ、時代性は豊かだ」と叱られると推測する。

 それぞれ異なる価値観を時代や教育によって育まれた世代が、その差異を根拠に見下しあっても、意味がない。なにしろ、全員の立場は同じ被験者として対等である。ここまで長々と記した通り、各々は各自“刷り込まれた”価値観に誘導されて生きている。学校のカリキュラムは、学術や就学率を向上させるためのものにあらず、今、生きている人間の精神性に多大なる影響を与える。よって、世代間で継承されるものと刷新されるものおよびそのギャップを、まずは知り、異なる価値観を持つ者の背景を理解することが、人間関係を良化するうえで何より肝要であると私は考える。

 異なる価値観をもつ者の時代背景に興味を持ち、自分がその時代に生まれていたら、どうなっていたのか、想像してみる。その第一歩より理解を深めていけば、少なくとも無駄な世代間の小競り合いは減少するのではないか。そしてギャップを知ることによって、個々に“刷り込まれた”意識への拘泥より脱し、各々の異なるポテンシャルや得意技を持ち寄って1つの社会の和を形成する、多様化社会に相応しい協力体制を築き上げることができるのではないか。

 とはいえ、そんなつまらぬ正論では動かしようがないのが“刷り込み”である。いっそ、「脱“刷り込み”」を訴える市民団体を全世代で結成し、戦後の教育に関わった国政者、省庁、議会、組織すべてを相手取り、「国民を実験モルモット扱いした教育機関を、人権侵害で訴える」主旨の集団訴訟を起こすことによって、一丸となってみる、というアイデアはどうか。非現実的な言い掛かりなので速やかに却下。引き続き、広い視野で様々な世代に“刷り込まれた”呪いの正体について勉強して参る所存である。

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