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やまゆり園事件で改めて感じた、障害者家族の“社会に対する遠慮”/「家族に障害者がいる日常」後篇

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 実は事件が起きるまで、姉の年金の具体的な金額を知りませんでした。改めて聞いてみて、家族の立場からでも決して少額ではないと感じましたし、特に助成金には、容疑者の「そこまで税金をつぎ込む価値があるのか」という主張にどう反論すればいいのかとも思いました。

それでも年金が、家族亡き後の姉の、文字通りの生命線であることは間違いなく、支援費制度の下では福祉サービスを“買わ”ないと、障害者は生きていけません。

 そして、お金だけあっても生きてはいけません。どれだけ知的障害が重くても、障害者に意思や自我がないということは、絶対にありません。知能は成長しなくても、年齢を重ねることで蓄積する「生活年齢」があり、他人から冷たく扱われれば、言われている内容を完全に理解はできていなくても哀しみや怒り、みじめさは感じています。そのストレスはたいてい、症状の悪化という形で表面化します。必要なものは、施設の職員による理解です。

 入所施設をどれだけ吟味しても、どう接してくれるかは職員個々の善意と優しさに期待と依存するしかないのが現状です。容疑者のような極端な主張は、職員の気持ちが揺らいでしまえば、いつでもどこでも、姉のグループホームでも起きうることだと思います。

世間に迷惑では、という意識

 やまゆり園事件の被害者遺族は、氏名の非公開を希望しました。私は、公表した方がよかったのではないかと感じています。どんな日常でどのように生きているかを世間へ知ってもらい、重度障害者は何も言わない「モノ」ではないと伝えるべきだったのではないかと。

 姉の年金は、地元自治体の不備で受給から漏れていた時期がありました。母は「もらって当然という態度はよくない」と、さかのぼっての請求をしませんでした。日本人は、当然の権利であっても「世間に迷惑では」と判断すれば過剰なほど遠慮してしまう傾向があると思います。やまゆり園事件はとても凄惨で被害者の思いもそれぞれでしょうが、非公開の要望の中には、多額の税金を費やされ「生かしてもらっている」ことへの遠慮もあったのではないかと感じています。

 職員の好意という目に見えないものに支えられている以上は、制度が変わっても、福祉業界の本質は変われません。自動車業界なら業務の見直しの「トヨタ式カイゼン」、IT業界なら商品やサービスを成長させる「グロースハック」と、他業界ではサービスの向上を目指す方法がいくつも提議されているのに、福祉業界ではなぜその概念が生まれないのか。事件の再発防止のためには、措置法時代の意識からの脱却という業界内部の意識改革とともに、利用者である障害者側も、必要な内容は声を上げる勇気を持つことが必要なのではないでしょうか。

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