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やまゆり園事件で改めて感じた、障害者家族の“社会に対する遠慮”/「家族に障害者がいる日常」後篇

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ポルノ、と切り捨てたくない

 世間に知ってもらうといっても、接点のないひとが、暗い内容が伴うこともある障害者の問題に関心を持つかといえば、むずかしいでしょう。じゃあどうしたらいいのか。いちばん簡単なのは、日テレ系列『24時間テレビ』に代表されるように「感動」をフックにすることです。その安直さを非難したNHKの『バリバラ』で取り上げられた「感動ポルノ」という言葉は、一気に浸透しました。

 感動ポルノの中では知的障害者は時に「天使ちゃん」などと称されますが、姉を含めても、私はそう思ったことは一度もありません。姉は人懐こいので、コンビニなどで缶コーヒーを買うという日々の習慣のなかで、店員に缶を開けてもらいたがります。応えてくれた時にはちゃんと敬語でお礼を言うことができますが、それは純粋だからではなく、少しでも他人に迷惑をかけまいとの母のしつけの成果なだけです。

 感動ポルノの派生型として、障害者の家族というだけで過剰に善人視される傾向もあります。

 子どもの頃は担任から“グレーゾーン”の同級生の面倒を期待されました。私も「他の子より慣れている」という自負から使命感にかられて引き受けましたが、押し付けられる抵抗感はありました。また、よく言われるのは「障害者の身内がいる人は優しいから」。善意で言ってくるぶん本当に厄介で、時には当事者同士でも思い込まれてしまうことも。小さな子どもがいるお母さんの全員が子ども好きとは限らないのと同じで、姉は家族だから大切にするけれど障害者すべてに優しくはできません。思春期の頃、年代の近い男の子の知的障害児に近寄られたり抱きつかれたりするのは、本当は怖かった。でもそう言ったらその子の家族が傷つくことを知っているから、黙らざるを得なかっただけなのです。

 それでも、「ポルノ」と全てを切り捨てるのは、私はとてももったいないと思います。障害者の現状を伝えながらも障害に関係ない普遍的な感動の提示であれば、ポルノに成り下がらないことは可能なはずです。過去に見た映画のなかでいちばん好きだった映画が、ジェット・リーが主演した『海洋天堂』でした。

 余命の短い中年男性が、自分の死後も障害のある息子がひとりでも生きていけるように奮闘する中国映画で、障害者を取り巻く環境の厳しさのリアルさと、「こうなってくれたらいいのに」という理想が叶うファンタジー具合が地に足のついた形で両立した、美しい家族の愛の物語でした。

 制度も世間の理解も、きっと今が過渡期なのです。まずは感動ポルノを踏み台にして、普及のきっかけにすればいいのではないしょうか。

 社会に障害者の言動の全ての許容を強いるのは、「理解」ではありません。赤ちゃんや幼児は路上だろうが公共の場だろうが大声で泣くことがあり、老人はビジネスマンと同じ速度では歩けない。それを迷惑だと考える人も存在しますが、大半のひとは赤ちゃんや老人はそういうものだと受け止めています。障害者の変わった言動に接した時に「そういうものだ」と考えてくれる、家族が望む理解はその程度で十分なのです。

(フィナンシェ西沢)

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