エンタメ

映画『怒り』に描かれた「怒り」の正体は一体何だったのか。

【この記事のキーワード】

それぞれの「怒り」にある共通点

映画の前半では、原作から残すべき部分とカットする部分のバランスは完璧に見えたのですが、後半ではバランスをやや崩していたように思います。

映画鑑賞後に原作を読んで、この作品の「怒り」には、共通点があることに気づきました。それは「取り巻く環境や社会を変えられない」という、どうしようもない「怒り」です。

例えば優馬は、ゲイであることを自分では認めていても、ふとした瞬間にそれを隠してしまうことに気づきます。それは、大西を試したり傷つけるときにより強く感じるものでした。優馬が自身に向ける「怒り」は、自分を取り囲む社会に一人では抗うことができないことが根源になっています。

辰哉は、自分の父親が土日になると那覇でデモをやっていることに対して、こんなことで世の中が変えられるのだろうかという疑問を持っています。この「世の中が変えられるのか」という疑問は後に辰哉を苦しめます。そして辰哉は、ある事件によって泉を取り巻く状況が変わったときに初めて、たとえ世の中を変えられなくても、じっとしてはいられないほどの「怒り」があることを知ります。

また洋平は、娘の愛子がかつて東京の風俗店で働いていたことが近所の人に知られていて、好奇の視線にこれからも晒されながら生きていかないといけないことに対しての恐怖と憤りを感じています。そして世間が娘の愛子を(そして女を)見る視線は、洋平一人では、どうにも変えられないという「怒り」を感じています。

三者がそれぞれ抱いている怒りや疑念は、それを発散したとしても、世の中と、自分や自分の大切なものに対する視線が何も変わらないのではないのかというジレンマを持っていることが共通していたと思うのです。

映画では描かれなかった泉の行動

この「どうにもならない怒り」をどのように昇華させるのかは、中盤に泉に起こる出来事がひとつの分岐点になっていたと思います。

その出来事に生まれた泉の「怒り」や悲しみもまた、自分ひとりではどうにもならないものでした。もちろん、勇気をもって立ち向かうことはできても、それによって泉が失うものは無数にあります。また、洋平が娘の愛子が晒されている世間の目から感じる恐怖と同じ類の恐怖もあるでしょう。

映画、小説の両方で、そのどうにもならない「怒り」を、泉の代わりに辰哉が爆発させることになります。しかし、映画版では、辰哉は自分の個人的な「怒り」をぶつけただけに過ぎず、泉のために世間を変えられる結果にはなりませんでした。

ところが原作では、泉自身が、辰哉が「怒り」を爆発させた動機を知ったことで、辰哉の正当性を少しでも理解してもらうために動き出します。そのことによって泉は自分が傷つくことになるのですが、自分のことを信じてくれた人を、自分自身も信じることで、泉自身も前向きになれたのではないかと思えました。それは、映画版とは違った形で、希望の光を感じられる結末であったのではないかと思います。私が後半でバランスを崩していると感じたのは、原作には書かれていた、この泉自身の「怒り」に対する自発的な行動の部分が描かれていなかったためなのです。

1 2 3

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。