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映画『怒り』に描かれた「怒り」の正体は一体何だったのか。

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対極にある「怒り」をもっと描いて欲しかった

導入部分で映る壁にかかれた「怒」という文字は、この映画における「怒り」がなんたるかを示しているかのように見えます。しかし文字で書かれた「怒」は、わかりやすく視覚として印象には残りますが、実際にその文字を書いた山神の「怒り」がどのようなものであったのかは、最後まで実態が見えなかったのではないかと思います。

もちろん、映画の中での山神の「怒り」は、虐げられて生きているものが他人から蔑まれたときに感じる「怒り」であるとは描かれています。これは、現代でもよく見る、ルサンチマンに起因するものではないかと思います。もちろん、誰しもルサンチマンを感じることはあるけれど、それだけで、山神のように犯罪で昇華してもよいものなのか。優馬や洋平や辰哉の、どうにもならないやるせなさに比べると、文字で示された「怒り」は空虚にも感じました。

小説版では、山神について、かつて作業現場で一緒に働いていた早川という男が、こんなことを供述しています(早川は映画版にも出てきますが、このセリフはありません)。

「……要するに、そういう、なんていうか、生と死っつーんですか、その境が曖昧な奴って、もう終わってますよ。自分にもないわけだから、もちろん相手にだってないわけで。だって、自分がいなくなるのと相手がいなくなるのが同じなんだから。だったら自分殺せって話っすよ。で、そういう奴に限って苛つきだすと何やるか分かったもんじゃないでしょ」

このセリフを見て、文字で示された、いかにも念のこもっていそうな山神の「怒り」の軽さと、洋平や優馬や辰哉や泉の感じている、どうにもならない「怒り」が、対極であるように思えてきました。

現在、世間をにぎわすいたたまれない事件は、山神のような空虚な「怒り」によるものが多いようにも見えます。その軽さが理屈ではなく、衝動や気分であるからこそ、理解できず、恐怖を感じるわけです。

映画化が難しいであろう原作をここまでの作品に仕上げたことは、今のままでも十分に評価されうるとは思います。ただ、どうにもならないけれど深い「怒り」と、すぐに爆発させることのできる空虚な「怒り」、この二つの対比がもっと描かれていたら、個人的にはより深く心に残る映画になったのだろうなと思ってしまうのでした。
(西森路代)

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