著者は現在アラサーのトランスジェンダーだが、やはり学校でLGBTなどの多様な性について学ぶ機会はなかった。「そもそも二次性徴が来ること自体が死ぬほど苦しいのは、一体なんなのだろうか」とか「女として生まれて、女として生きるのが罰ゲームのようにつらいけれど、これは周りの女子も一生けん命に頑張って、歯をくいしばりながらスカートを履いているのだろうか」などと考えていたりした。性別を変えて生きられることを知るまでの私はセーラー服を着たゾンビで、インターネットを駆使しながらトランスジェンダーの全てを調べ上げる以外に情報がなかったのは、やはり教育システムの穴だっただろう。
「教えてほしかった!」と言っているのは、別にマイノリティの側だけじゃない。
友人で、男性が好きな女性、つまりは世間における「多数派」に属するマッキーも、多様な性についてきちんと学校で教わりたかったひとりだ。
彼女は、無知ゆえに親友の前で「ホモきもいよね」を連呼。親友に「どうして彼氏つくんないの?」とお節介をやき、かなりの長い時間を彼女と一緒に過ごしていたのにもかかわらず、いざ親友が海外へと渡る直前になるまでカミングアウトされることがなかった。
「言ってなかったけど、私、女の子が好きなんだよね」
その一言を言い残して親友は海外へと去る。マッキーは後悔した。親友は、もうここにはいない。なぜそれを言い残して彼女が消えたのかといえば、ほかならぬ自分が「同性愛者に対する失礼な発言」を繰り返してきたからだった。そんな自分だから、一緒に暮らしていたのに(シェアハウスに暮らしていた)、毎日ご飯を一緒に食べていたのに、打ち明けてくれなかった。
「わかってたら、大切な友達を傷つけることは絶対しなかったのに!!!」
同じ台詞を、LGBTを家族に持つというきょうだいや親からも、何度となく耳にしてきた。みんながフツーに話している「ゲイいじり」が、どんな意味を持つのか知らなかった。というか、身近にLGBTの人がいることを知らなかった。教わる機会がなかった。だから、知らない間に大切な友人やきょうだい、子どもを人知れぬ場所で悩ませてしまっていたんだ――。
少数派について学ぶことは、かれらを愛する全ての人たちにとって必要なことだ。多様な性について知ることは、大切な人を理解し、傷つけないために不可欠なことだ。そのような意味でも、多様な性について学校で扱うことの意義はとても大きい。