
ナガコ再始動
かねてより、日本は“制度”の整備は得意でも、その運営や利用をする国民の“精神性”が追随しないため、せっかくの“制度”が有効活用されないケースが散見されると述べてきた。
例えば、男性による育児休暇取得。これは、女性の就業率向上や子育て支援等、現代社会に必要不可欠な「女性支援策」としてのみならず、前時代をリードした男性優位社会における男女格差を刷新し、国際水準に則った男女対等なジェンダー観と足並みを合わせるためにも重要な施策である。
社会のニーズやジェンダー意識を取り沙汰せずとも、「産んで、育てて、働く」若いお母さんが膨大なタスクを前に苦しんでいる現実を前にして、「自分にできることがあったら、手伝うよ」と申し出るのが人心地というものだ。お母さんの夫であるお父さんや家族だけでなく、まったく接点のない者であっても、同じ社会の一員である以上、助け合って生きていこう、ニッポン。というわけで、共生のための改善案として、男性による育児休暇取得は、有効な“制度”であると考える。
しかし、実際に男性が育児休暇を取得し、主体的に子育てを担う社会にはまだ遠い。人事院が9月13日に発表した2015年度の国家公務員の育児休業取得状況によると、女性の取得率は100%だったが、妻の出産に伴い育休を取った男性の割合は9.5%だった。これでも、前年度比4ポイント増であり、前進していると言えるのだが、国家公務員でもまだこれだけ男女の育児休暇取得率に偏りがある。部下の子育てや介護に理解のある上司「イクボス」を増やそうとの試みも広まりつつあるが、意識が現場まで浸透しているとは言い難いのではないだろうか。
また、民間企業で男性社員が育児休暇を申請しようものなら、「男のくせに、仕事もしないで、優雅に子育てかよ(笑)」だの「男に子育てさせるだなんて、この国ももう終わりか」だのと嫌味をいう上司が、未だに職場にいて困るという話をサラリーマンの友人づてに聞くと、「そんな上司がまだいること自体が、お国のピンチだよ」と思わずにはいられない。そもそも、家庭のために定時退社することすら同僚に「迷惑」よばわりされ、白い目で見られる職場すらあるようだ。以上は、いくら“制度”を整えても、現場の人間の理解が得られないようなら、機能しようがない悪例の典型といえる。
今の日本は、老いも若きも歩み寄る協力姿勢がなければ、それこそ本当に終わる。と、ちょっと考えれば分かるだろうに、まったく理解を示さない者が街場には多勢いる。彼らは、なぜ、理解できないのか。理解したうえで、歩み寄りを示す言動を拒絶しているのか。その根源には、時代や教育によって“刷り込まれた”男女格差思想への拘泥が存在すると考える。つまり、「ちょっと考えれば分かること」や「現代社会に必要な価値観への適応」を阻害するほど強力な “刷り込み”に、洗脳されている状態といって差しつかえないだろう。
男女格差を“刷り込む”カリキュラムが「かくされた」経緯
前回記した通り、第一次ベビーブームに誕生した団塊世代、第二次ベビーブームの我々団塊ジュニア、新生児出生率が減少した「ゆとり世代」の受けた教育は異なる。学校内での男女格差の在り方にも差異がある。
団塊世代は、第二次世界大戦後にGHQが「日本人の再教育」と題して展開した民主主義教育の影響下にある教育カリキュラムを受けた。軍国主義や封建主義、男子優先性といった前時代的な思想はもれなく排除。しかし、教科書に載っていないだけで、戦争を体験した親や周囲の大人が依然「大日本帝国万歳!」のかけ声のもと、「列強ロシアを倒した日本は強い」「もう一度、戦争すれば、アメリカに勝てる」と吹聴することにより、大日本魂をうっかり継承させられた子供たちも多勢いたのではないかと想像する。
また、戦前は、男子優勢、女子劣勢の価値観が「あって当たり前」の男尊女卑社会であり、戦後の学校教育の“制度”がいかに民主主義的男女平等を目指したところで、現場の“精神”にはまだまだ実質的な男女不平等思想が残されていたはずである。その点、木村涼子著『学校教育とジェンダー』(勁草書房)より説明を引用させていただく。
『戦前の教育システムにおいては、男女を異なる目的の下に異なる処遇をもって教育することは、公言され「目に見える」形で制度化されていた。しかし、戦後には、教育におけるセクシズムは、「かくれたカリキュラム」として潜在化する。男女分離・男子優先の慣習は、戦前の教育制度の下では公的に意味のある合理的なものだったが、戦後教育システムの文脈では公的には意味をもたない「単なる習慣」「ささいなこと」として、その差別性は隠蔽される』( 36-37ページより引用)
『日本の戦前の教育システムは、ほとんどの領域が男女で分離され格差づけられた、あからさまな差別制度であったが、第二次世界大戦後の教育システムは、男女平等の教育機会を提供するという基本原則でスタートした。しかし男女平等の原則は、その後の方向転換を経てなし崩し的にゆがめられていき、男女別学・別コースの実態が学校教育のかなりの範囲で生じてきている』(37ページより引用)
以下、『「かくれたカリキュラム」が、なぜ「かくれている」のか』を説いた同書を参照したうえで、持論を展開していきたい。