「現実への適応」を阻害する強力な“刷り込み”としての学校教育「かくれたカリキュラム」と「見えるセクシズム」

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 GHQや日本政府が「はい! じゃあ、今日から、学校では男女平等で!」と言ったぐらいでは、家庭や学校外の社会によって“刷り込まれる”不平等性はなくならない。しかし、「男女平等の教育機会提供が基本原則になっちゃったから、従わないといけない」ので、男尊女卑を明示する教育カリキュラムを廃止。男女共学の共生生活において、教員はなるべく両者を対等に扱う指導を行うようにとのお達しを受けた。

 とはいえ、男女には傾向がある。男女別の得意教科調査のデータを集計してみると、男子は「数学」や「理科」が、女子は「英語」や「国語」が得意であるとの結果が明るみに出る。もっとも、あくまでも数字の傾向であって、児童の得意分野は個々それぞれにある。学校教育は基本原則通り、全教科の授業を男女平等に提供する。が、水面下では「男子の得意な教科」と「女子の得意な教科」の印象上の性差が起こり、「因数分解が大好きな女子」や「詩を書かせた際の言語表現能力がずば抜けている男子」が揶揄われたり、将来の進路の選択肢が狭められたりといった影響が生じた。 また、「リーダーシップを発揮するのは男子の方、女子はその補佐役が適任である」とのアンケート結果が積み上げられていくうちに、その傾向を踏まえた男女で異なる指導方針が確立されていった。

 肉体の作りも異なるので、体育の徒競走の授業で男女を並列に競わせても、男子優性の結果を招く確率が高まる。よって男女別にチームを分け、男子は男子と、女子は女子と競走する。運動会では「男女対抗の紅白戦」も展開される。全校集会では男女別整列。出席簿を読み上げる時、同じ名字の男女がいる場合、必ず男子が先に名を呼ばれる。小学校では「家庭科」を男女共修していたにも関わらず、中学校に入ると、男子は「技術」、女子は「家庭科」を別修する(1993年に中学校にて、1994年より高校にて、男女必修化実施)。

 かくして、男女差別を撤廃した教育制度の現場において、児童にジェンダー・ギャップを“刷り込む”トラップが山と仕掛けられた。これらは総じて「かくれたカリキュラム」と呼ばれ、児童が大人になっても刷新できない固定観念として脳のど真ん中に居座り続けるのである。気色悪い!

「女らしさ」の演劇

 『学校文化とジェンダー』にて、木村氏は「かくれたカリキュラム」のセクシズムについて、以下のように述べられた。

『家庭科の問題は公的なカリキュラムに制度化された「見える」セクシズムであるが、ここで指摘した、カリキュラム全体に波及効果をもつ象徴的機能については「かくれている」。家庭科の象徴的機能を含めて、これまで指摘してきた学校文化の諸側面はいずれも、セクシズムの再生産に寄与する働きをしているにも関わらず、そうした目的を公に掲げて実践されているわけではない』(36ページより引用

 建前上はきれいでも、本音はどす黒い。京都の女性がはんなりとぶぶ漬けを供するかのようなこの二重構造は、本来的な意味合いや意図が、ぱっと見はまったく分からないところが不気味である。「イヤだから」という理由で「NO」と言う欧米諸国の方々に言わせれば、得体の知れない事態ではないかと考える。

 欧米の方々を引き合いに出さずとも、上記の“刷り込み”を教育によって受けた世代の中には、「男の子は男らしく」「女の子は女らしく」と言われることに何の疑問も持たず受け入れる者もいれば、たまらない苦痛を感じる者もいたはずである。私個人は、イヤであると同時に、「気色悪かった」。なぜか。理由は主に2つ。1つは、学校教育を受ける以前より、父に「男らしく」育てられたせいで、「女の子らしさ」になかなか適応できなかったから。

 2つ目は、根拠が分からないから。「あなたの性別は、女です。だから、女の子らしくしなさい」と先生に命じられても、性別(セックス)と、「女の子らしさ」(ジェンダー)を問答無用とばかりにイコールで結びつけられる道理が、私にはさっぱり分からない。なにしろ当時の私は「男らしい女の子」である。自分の在り方を根拠に考えると、肉体のみが人間のすべてを支配できるわけがない。重要なのは男か女かではない。「自分らしさ」ではないのか。

 疑問を覚えた私は、得意の「え、なんで?」の質問を繰り出し、「女」=「女らしさ」のイコールの公式を成立するに足る因子の説明を促すのだが、先生は「そういうものだから」の一点張りで、明解を避ける。理由も説明できないのに命令はしたがる先生の態度に腹を立てた私は、「答えがない=意味も理由もない=従う必要はない。以上のイコールの公式をもって、先生の命令を却下」と真顔で宣い、「態度が悪い」という理由で廊下に立たされた。

 「女」=「女らしさ」を説く先生の言い分は、私の耳には「肉体が女である者は全員もれなく、社会の舞台で女役の演劇をやれ」と聞こえる。「良いお母さんになれ」や「いつか結婚して子供を産むことが女の子の幸せ」といった言説も、既に社会に用意されているシナリオ通りに生きろ、女の“型”を踏襲しろと強要されているようで腹立たしい。そのシナリオだが、一体、どこの誰が書いたというのだ。なんとなく社会に蔓延している「女ってこういうものだよね」の曖昧な雰囲気に流されているだけではないのか。そのような得体の知れない雰囲気に飲まれるのが「気色悪い」。だから私は従わない。従わせたいなら、シナリオを書いた超本人を連れて来い。話はそれからだ。

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