「現実への適応」を阻害する強力な“刷り込み”としての学校教育「かくれたカリキュラム」と「見えるセクシズム」

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 私が「気色悪い」と思っていたのは、定義も根拠も不明な点、しかし盲目的に追随する人間が実存する点、主にその2点であった。が、「かくれたカリキュラム」について学びつつある今、1つ目の正体は、教育の大義名分の水面下に「かくれている」不明瞭な男女格差、そして2つ目は「かくれて」こっそり人間の潜在意識を操り、特定的なジェンダーの“型”に誘導せんとするカリキュラムのウィルス性について、「気色悪い」と感じていたのだなと思い直す。

 また、「かくれたカリキュラム」の視点を通して社会を見つめてみると、“刷り込み”の威力や残滓に未だ拘泥され続けている者たちの価値観に遭遇し、改めてその罪深い洗脳ウィルス性は「時代のバグ」ではないかと考えるに至る。教育を受けている最中においても、男女それぞれに用意されたステレオタイプな学科修得によって、その後の進路が決定付けられたり、選択肢が狭められたりと、「かくれたカリキュラム」に“作られた”道を歩まざるを得なかった者がいる。他人事とはいえ、悔しい。「人間の可能性を制限してんじゃねえよ」くらいの文句は言っておきたい。

 もっとも、私個人にとっては、先攻である父による“軍人刷り込み”が壮絶だったせいで、後攻の教育の“刷り込み”を無視。かえって徹底抗戦するという我ながら意味の分からない人生を歩んでいるわけだが、「女らしさって何だ」とむかついたところで、「まあ、私には関係がないことだから、私は私らしく、勝手に生きようっと」と、さくっと切り捨てる心の刀を父が磨いてくれたことのみ、感謝したい。

 しかし、自分勝手な個人主義者である私とは違い、周囲との和を気遣うあまりに、周囲や社会に求められるジェンダーの“型”を苦しみながら踏襲する人が、街場には多勢いる。己に“刷り込まれた”価値観によって、異なる価値観の持ち主を叩く者もまだまだいる。他者を“型”に嵌めたがる者も叩く者も、“刷り込み”の被害者と考えられる以上、敵の正体は個人ではない。

 現在は、本格的かつストレスフリーな男女共同参画社会の実現に向かう過渡期である。今、最も必要な姿勢は、各位の“刷り込み”の正体とその差異を学び、“刷り込み”を上回る理解力をもって人に寄り添う共生観ではないかと、私は考える。

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