18歳という若さで中原中也賞を受賞した平成生まれの詩人、文月悠光さん。このたび刊行された初エッセイ集『洗礼ダイアリー』(ポプラ社)では、今の世の中を、若い女性として、そしてひとりの詩人として生きるうえで感じる「生きづらさ」について綴られています。異性から無遠慮にぶつけられるセクハラ発言に、思春期に感じた異性からの視線、勝手に押し付けられる「女性」としての役割や幻想……。誰もが経験し、苦しみながらも口に出せなかった出来事に関するモヤモヤを、文月さんが言葉で紐解いていきます。
――8月末にcakesの連載で「私は詩人じゃなかったら『娼婦』になっていたのか?」という記事がインターネット上で話題になりました。大学から詩人としての講義の依頼を受け、「詩人という異端者」という紹介をされつつも教壇に立った文月さんに、教授からの「文月さんも詩を書いていなかったら、娼婦になっていたんじゃないか」という乱暴な質問がなされた、という一連の出来事と文月さんの思いが書かれた記事でしたが、ネット上の反応をどのように見られていましたか?
文月 「反応」と一絡げにすることはできないんですけど、単純な感想としては、「こんなひどいことを言う人がいるのか。絶望した」というもの、それから、もうちょっと踏み込んだ意見として、「この教授の質問の意図は何なんだろう」と考察していくコメントが見られました。あとは私がなぜこの件を記事に書いたのかを邪推したがる人が一定数いて、「こういう形で記事にするんじゃなくて、セクハラ窓口に相談すればいいのに」とか、「こんなことを書いても何も解決しないだろう」、「後から書くんじゃなくてその場で言い返せばよかったのに」という意見もありました。
ただ、「私も会社でセクハラを受けたときに口をつぐんでしまって……」というふうに、記事をきっかけに、自身の体験についてSNS上で口を開く読者も多くいたんです。あの記事も、別に教授を糾弾したい、告発したいという意図はなくて、男女関わらずあるであろう「何かしらの幻想を相手からぶつけられて、戸惑った体験」を書いてみたかったんです。でも私の受け止め方が一番正しいっていうわけでもないし、私自身も今思い返すと「こういう反応をすればよかった」と後悔する部分はたくさんありますね……。そういうことも含めて、第三者にもわかる形で考察したい、と思って書いた記事で。だからその記事をきっかけにして口を開いてくださる方が多かったのは嬉しかったですね。
――セクハラに限りませんが、被害にあった人が「それは外に向かって言うことではない」とか「黙っているべきだ」と思ってしまって、そういう出来事自体をなかったことにしてしまいがちだなと思います。だからこそ、「これは正さなければならない」というような強い主張でなくても、「こういう体験をしました」という形で声を上げてくれる人がいたというのは、「自分だけじゃないんだ」「声を上げていいんだ」と救いになった人が多いのではと感じました。
文月 女性の味方であるため、つらい目に遭った女性を代弁するために、あの記事を書いたというわけでもないんですよね。単純に、そういう質問を許容させる場の空気に「おかしいな」と疑問を感じたんです。たまたまその大学の教室がそういう場だったのかもしれないけど、社会のあちこちにそういう力関係のアンバランスさがありますよね。だから、どうしてこういうことが起きちゃうのかな、とか、起きてしまうことが前提なのだとしたら、それに対してどういうふうな言葉を返せばいいのかな、というふうにモヤモヤ考えながら原稿にしていきました。
――色々な事柄に対して、何かスパッとした意見を出すことを求められることが多いと思うのですが、文月さんのように言いよどんだり、モヤモヤしたりしながらも事実や言葉と向き合っていくことというのも大切なように感じます。それこそ、インターネット上で挙げられた「その場でうまく切り返してやれ」的な意見って、「セクハラ」というお題の大喜利をやっているんじゃないか、と思っていて。
文月 「スパッと強い言葉で切り返せばいい」と言っている人たちは、本気で被害者の立場に立って言っているわけではなくて、やっぱり大喜利的に「こういうネタはこういう言葉で処理すればいい」という形式に則って、瞬間的な反応をしているんですよね。実際に記事をよく読んでもらえれば、講義中で、学生たちの多くの目がある中で、スパッと言い返すのは難しいだろうというのは分かると思うんですけど、そういう大喜利的な読まれ方をされてしまったのは少し悲しかったです。でも、あの記事も深く読もうとすればするほど、読み手自身の心を抉る内容であったかもしれない。だから教授を叩くとか、私の反応を批判するとか、どちらか一方に責任を押しつける読み方をせざるをえないという面もあるのかなと思います。
「男性と女性の生きづらさはイコールではない」
――先ほど「何かしらの幻想を相手からぶつけられて、戸惑った体験」があるのは「男女関わらず」とおっしゃっていましたが、インターネット上の反応として、「実は私も」というふうに口を開く方というのは、やはり女性が多かったですか?
文月 そうですね。書き手の私が女性であるということもあってか、cakesの記事に関しては女性の声が多かったかなと思います。でも男性は男性で、おそらく別の圧力にさらされているんですよね。たとえばあの教授が私を学生に紹介するにあたって「詩人という異端者を呼んできました」という言葉を使ったわけですけど、その教授自身もまた、「アウトローでなければならない」という圧力を、自分自身、あるいは社会からかけられているように思いました。だから周りの人間もそっちに引っ張りたい、道連れにしたいという気持ちもあったのかな、と。そういう圧力に対して言及しづらい社会全体の空気があるのかもしれない、とも感じますね。
最近は田中俊之さんのように、「男性学」について書かれる方が増えてきていて、それはよいことだなと思っています。男性が背負っている役割について、女性は想像だけでは及ばない範囲があるので。女性が生きやすい社会になると男性が生きづらくなる、みたいな図式でものを捉える人もいますが、それはどうなんだろう、と。女性が生きやすい社会になれば男性も生きやすくなるのでは? と私は思うので、そういう捉え方には疑問を感じてしまいます。「自分が生きづらいのは女性のせいだ」、「女性が俺たちから権利を奪っているんだ」とか、偏りすぎると、女性を敵視するような思想になってしまうし。
――文月さん自身、女性であるということで生きづらさを感じた経験はありますか。
文月 エッセイから誤解されることもあるのですが、私は別に自分の性別が女性であることに違和感は持っていないし、女性的なふるまいを求められることにも、抵抗は少ないほうかなと思います。女性として生まれてきたことを受け入れている以上、「女性であること」に生きづらさを感じることはあまりないんです。ただ、「女性であること」について外部から何かしらのレッテルを貼られることに対して、息苦しいと感じることはあるんですね。
――初めてそういう生きづらさを感じたのは、いつごろなのでしょう。
文月 やっぱり対異性というか、男性からの視線を意識しはじめた頃に、変な焦りを覚えたんですね。女の子って一般的に、小学校高学年くらいのころから徐々に男の子の目を気にして、そうじゃなくても周囲の影響でおしゃれに目覚めたりすると思うんですけど、私は中学三年ごろまで、そういうことに鈍感に過ごしていて。詩を書くことと、部活の演劇しか興味がなかったんですよね。でも、まったく気を遣わないでいると、だんだんクラスの男子から容姿のことで陰口を言われたりするようになってきて。それまでは、「お化粧をしたい」、「かわいいお洋服を着たい」という気持ちが純粋に「おめかしをしたい」という憧れとしてあったんですけど、それが「かわいくなって、男の人の視界に入らないと、この場所で生きさせてもらえないんだ」という強い焦りになってしまったんです。そこから必死にお化粧を覚えたり、「女の子はこうあるべきだ」という女性的なふるまいを内面化するようになったんですけど、今になってみると、「じゃあ同時期に、男の子たちにはどういう焦りがあったんだろう、どういう生きづらさがあったんだろう」と思うんですよね。その当時は、自分の居場所を得るためにかわいくならなきゃ!ということで私自身もすごく焦っていたんだけど、男の子たちはどうだったんだろうなって。
そういうふうに、お互いの生きづらさみたいなものがまったく共有されないまま成長して、「大学を卒業しましたね、じゃあ今日から同じ会社で一緒に働きましょう!」ってなっても、困るじゃないですか。たとえばコマーシャルなどで、不適切とされる表現があった場合に、「これは女性差別だ」と批判すると、「じゃあここに描かれている対象が女性じゃなくて男性でも、同じように男性差別だと批判するのか」みたいな反論が出ますよね。でも、男女の受け取り方って絶対イコールにならないと思うんです。女性は女性として育てられてきた環境があるし、そこで培われてきた価値観がある。その価値観を通してその表現を見ることで、女性たちは傷つくのであって、違う環境で違う価値観を培ってきた男性とは、受け取り方がもちろん違うはずです。一人一人受け取り方が異なる、という前提がないと、性別に限らずみんなが非常に生きづらい感じがします。
女は許してあげなければならないという「風潮」?
――文月さんは新刊『洗礼ダイアリー』の中でも、女性詩人という存在として外部から何かしらのレッテルを貼られてしまうことの息苦しさについて書かれていますよね。「女性」で「詩人」なのだから、セックスや濃い恋愛をしなければならない――男性客からぶつけられたその言葉から始まる「セックスすれば詩が書けるのか問題」は、webで公開されたときにも話題になりました。女性が職業についたとき、男性には与えられないはずの属性やキャラクター性のようなものが紐付けされてしまうという現象について、どう思われますか。たとえば、看護師の女性は献身的で優しい、とか、キャリアの女性は性格がきつい、のような……。
文月 個人的には、職業でキャラ付けをされてしまう問題って男女問わずあると思っています。たとえば「教師」だったら聖職だから、社会的なルールを守る存在でいなきゃいけない、というふうに、勤務時間以外のところでもその職業や性質を演じなければならないということがある。でもそう考えたときに、なぜ女性が職業的なキャラクターを紐付けされなければならないのかっていうと、やはり職業以前に「女性」を演じることを求める空気が社会の中にあるんですよね。看護婦さんには献身的であってほしいとか、女性詩人にはハチャメチャな恋愛をしてほしいとか……それが幻想だっていうことは、少し考えれば分かることだと思うんですけど、おそらくそこまで考えて発言していない。「何が悪いの?」という感じだと思うんですよ。だからそういう空気にさらされている女性自身も、自分がそこにいることで抑圧されるとか、生きづらさを感じることに気がつく人もいれば、気づかない人もいるんじゃないかな。だってそういうふうに育てられてきてしまったから、そういうふうに周りから扱われてきたから。
職業性で要請される役割はあるにしろ、その職業自体を変えることはある程度可能ですよね。でも、女性であることや、女性として周囲から求められる役割は、そう簡単には変えられない。私にしても自分自身の肉体的な性別に対しては違和感を持っていないわけで、それに対する周りの見方が気持ち悪いと思うだけ。「なんで私のほうが変わらないといけないの?」「なんで男性側の都合を背負わなくてはいけないの?」というのが、多くの女性の本音だと思いますけどね。
――女性ってやっぱり受け入れたり、許す存在でいなければならないみたいな「母性」が求められるというか、たとえば女の人が男の人から何か不愉快なことをされた場合でも、「男の人はそういう生き物だから仕方がない」「女は許してあげなきゃ」と思わされる風潮がありますよね。
文月 「男の人の浮気は許してあげなきゃ」みたいなものですよね。でも、そういう「許してあげるのがいい女」みたいな考えって、男性に対してもすごく失礼だし、女性の側も「飲み込むしかない」というだけですよね。私も何か不快な言動にさらされたとき、その場では言い返せなかったとしても、その人のことを「許した」とは全然思っていません。「黙る(けど許していない)」という姿勢ですよね。その場で言い返してしまうと、相手を断罪したり、つるし上げることになってしまうから、「そういうことをして場の空気を乱すよりも、その場の雰囲気を良いものとして収めなくては」という気持ちが強く働いて、だから何も言えなくなる。
女性って、幼少期から「場の空気を読みなさい」という抑圧をかけられていて、意見を主張することよりも周囲に同調することを推奨されやすい。かといってそこで言い返しても、「女性のヒステリー」で片付けられてしまうのが目に見えているし、仮にそこで泣き出して、「そんなふうに言われて傷つきました」と取り乱したら、「あいつは面倒くさいから次から飲み会呼ばないでおこう」とか「じゃあ次から仕事振らない」と排除されてしまうだけ。損するのは言い返した側になることが、事が起きたその瞬間にもう分かってしまう。だから黙らされてしまう、っていう構造の問題なんだと思いますね。
「許してあげなければならない風潮」って、「風潮」という形にして責任を負いたくないだけで、よくよく考えればそういう細かな構造があるのが分かるはず。それを「風潮」という一言で収めてしまうのは怠慢という気がします。思考停止にすごく便利な言葉だなと。みんな本当にそれでいいの? と感じますね。
(聞き手・構成/餅井アンナ)