
『洗礼ダイアリー』著者・文月悠光さん
現代を「若い女性」、そして「詩人」として生きる息苦しさに悩まされながら、社会の中にある歪みをまっすぐに見つめ、おずおずと言葉で語る文月悠光さん。前編では、セクハラや異性の目線、「女性」に押し付けられる役割について、ご自身の経験をお話ししていただきました。後編では、初のエッセイ集『洗礼ダイアリー』(ポプラ社)に綴られた「人間世界の半数を占めながらも、人間社会の中ではマイノリティである存在」としての女性の声、そしてそれに共鳴するかのように響く読者たちの声、文月さんが言葉を綴ることに持つ希望について語っていただきます。
・今の世を「若き女性詩人」として生きることの生きづらさ――『洗礼ダイアリー』著者・文月悠光さんインタビュー【前編】
「人間世界の半数、でも人間社会の中ではマイノリティである存在」の生きづらさ
――新刊『洗礼ダイアリー』は初のエッセイ集とのことですが、どのようにしてできた本なのでしょうか。
文月 私はずっと詩に関する仕事をやってきましたが、散文を書くことも好きだったので、自分の体験や感じてきたことをちゃんと文章にしてみたいという気持ちがあったんです。そこに歌人の穂村弘さんや、担当編集の方から、「エッセイを書いてみたら?」と声をかけていただいて。当初ははっきりとしたテーマや題材を設定しよう、って話をしていたんです。例えば「思い出の音楽について書く」とか。ただ、連載前の段階では私も何が出てくるか分からないなと思って、結果その都度、編集さんと打ち合わせて、そのときの関心事や思い出す出来事を書いていったという感じです。それでも一冊を通して読んでみると、「文月悠光」というよりは、『洗礼ダイアリー』の語り手という像が浮かび上がってくるのではないかなと思いました。ひとつの成長譚としても読めるし、若い女性として社会で生きることの息苦しさを綴った本でもある。
先日、この本の刊行記念イベントとして、穂村弘さんと対談をしたんですけど、そのときに「世の中にはマイノリティと呼ばれる人たちの存在がいるけど、人口の半分を占めているとはいえ、女性もまたマイノリティと言っていい存在だと思う」と言われたんです。人口では半数を占めているけれども、社会の中で、ある程度権力や決定権を握っている女性の割合はおそらく少ない。そういうことを、男性の側から言ってもらえたということにすごくほっとしました。やっぱり女性の側から「ちょっとこれは不公平なんじゃないの?」って声を上げようとしても、「それでも女性は人口の半数いるんだし、ほかにも少数派として我慢している人はたくさんいるわけだし」と我慢して口を閉ざしがちになるので。
『洗礼ダイアリー』は、「人間世界の半数を占めながらも、人間社会の中ではマイノリティである女性」の生きづらさを、私個人の経験に引きつけて語った本でもあるんですよね。「詩人」という存在に興味がある人にとっては、「物を書く人間がどういうことを考えているのか」ということが読めて面白いのかもしれません。でも、読んでもらえば、「詩人といっても普通の人なんだ、移ろいゆく世の中で懸命に生きている存在なんだな」と理解してもらえると思います。
――「詩人」ってなんとなく神格化されやすい存在ですよね。『洗礼ダイアリー』を拝読していると、「詩人」といえば言葉に対してすごくセンシティブで、常に感受性が豊かで……という思い込みが、文月さんの言葉によって少しずつほぐされていくような印象を受けました。それに、インタビューの前半でお話になっていたことと重なりますが、「女性」というものを見る外部の目に感じた違和感に対しても、断罪するような感じではなく、すごく戸惑っているような感じで書かれていました。
文月 それは私の中に、「どうしてもこれを主張したい」という思いがないからかもしれません。たとえば「セクハラする男性を断罪したい」というような目的があったとすれば、『洗礼ダイアリー』はその主張を補強するエピソードを集めた本になっていたはずです。でも、そういう核となる主張みたいなものが私にはなくて。ただ自分の中に、モヤモヤとわだかまっている出来事――何のためにあんな体験をしなきゃいけなかったのか、とか、答えが出ないこと――があるということが気持ち悪い。それを言葉に書き起こしてみたら「なるほど、こういうことだったのか」と視界が晴れるような感覚があったんです。だから書きながら自分自身を導いていったというか、自分の中でも「この出来事をどうとらえたら心の中で整理がつくのかな」というのを探りながら書いていった読み物ですね。cakesで大学の教授の記事を書いたときに、「こんなものを書いても何も解決しない」と言っていた人もいましたけど、そういう人には、私がなぜ書くのかという根本が伝わっていないんだなと感じました。
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