「常にカバンに絆創膏が入っている」「手作り弁当」「飲み会で率先してサラダを取り分ける」。これらは些細な気配りであり、誰がやっていたっておかしくないことだ。それを多くの人が「女子力」と呼ぶ。女性はもちろん、そうした振る舞いをする男性にも「女子力高い」とまで言われるようになった。
女子力とは、“社会が女性性に求めてきた行為”を成し遂げる能力のことだろう。料理、洗濯、裁縫といった家事や育児、気配り、身だしなみなど、これまで女性に求められてきた仕事を完全にこなす者こそが「完璧な女性」になれる。そんな概念が、いまだに社会の中で根強く生き延びている。
最近炎上した、とあるプロジェクトがある。福岡県宗像市の「宗像市都市再生プロジェクト専門家会議提言書」に記載された「女子力大学」だ。
「女子力大学」では、「大学では学習機会が少ない文化的素養や教養をテーマにした定期講座の開催で、宗像市内の大学に通う大学生の女子力の向上」「UR日の里団地の空き店舗や空室、集会所などを利用した女子力向上に関する定期講座やまちづくりワークショップの開催」を主なコンテンツとして掲げているほか、女子力の認定制度の実施、取得した女子力を地域再生に活かす取り組みなどが具体的に挙げられている。
ここでいう「女子力」とは一体何か。冒頭で示した「完璧な女性」に求められる能力のことなのか。この報告書には明確な「女子力」の定義は記載されていない。定義が曖昧なこと自体が問題なのだが、文脈上「大学では学習機会が少ない文化的素養や教養」を身につけた結果得られるのが「女子力」であるようだ。
宗像市の専門家の人々は一体、女性たちに何を求めているのだろうか。
「昨日かわいいお花屋さん見つけたよ!」
「今日はお花の授業だ!」
「お茶の勉強してカフェをやりたい」
「みんなで史跡巡り行こうよー」
「もっと、料理の授業があればいいのにー」
「今日の服かわいいねー」
「私たち女子力上がってきたねー」
これは、プロジェクトの「実施中のイメージ」として記載された女子大生たちの会話である。
大学では学べない文化的素養・教養を学び「女子力」が身についた状態だと思われる学生たちの会話が、かわいいお花屋さんだのカフェを開くだの服だの料理だのに終始しているというのは、何を意味すると言うのだろう。
「花」「料理」「服」といった要素が女性の持つべき教養とされることは、あまりにも前時代的なステレオタイプだ。この報告書には、ボクシングを楽しむ女性やDJプレイに一家言ある女性や、政治を語る女性は出てこない。これまで「女性的」とされてきた要素に限られているのだ。学生を応援したいのであれば、そうした一辺倒な価値観のみを示すべきではない。趣味・嗜好の多様化を推奨するべきだろう。
そこにあるのはただ「女」という幻想だけだ。女子学生を、抑圧的な女性像の型にはめることが、「女子力の向上」であり「女性の教養」だとしてポジティブに語られている。
別にいい。日常会話で相手の服を褒めることぐらいするだろう。しかし、その程度のことが「女性の教養」と呼ばれることは許せない。かわいい花屋を見つけて指摘することのどこが教養なのだ? そんなこと、幼稚園児でも出来るではないか! 「私たち女子力上がってきたねー」というセリフは以前から何がしかの進歩が見られたという観点での発言だと考えられるが、「かわいい花屋の発見・指摘」が躍進の結果として認められる評価軸とは、一体女性にとって何の価値があるのだろうか
あまりにも当事者性のない企画には、消費される客体としての女性性の姿を見ることができる。視線の対象になるためだけの女性を作り出す計画。まるで工場だ。
宗像市のプロジェクトでは、同時に「宗像オヤジ再生カレッジ」という企画も考えられていた。ターゲットは宗像在住の男子大学生と若い父親だ。これは「女性の教養」の対として「男性の教養」が設定されたということだろう。講座の例には「親父らしさ発掘講座」「料理力UP講座」が挙げられている。こちらも「親父らしさ」という定義不明の概念が用いられており、全貌は見えてこない。しかし、もしかつての家父長制的な父親像のことを「親父らしさ」と呼んでいるなら、やはりこれも極めて前時代的だと言わざるを得まい。「親父」=妻を持ち、子を成した男性が男性の理想形として唱えられることは現在のライフスタイルの多様化に逆行している。これもまた、男性を「男はこうあるべき」という枠に押し込んで成形しようとする暴力的な思考回路である。「男性」「女性」の二項対立で人間が切り取られることがいかに残酷なことであるか、これを考えた専門家なる人物は理解していないに違いない。
一人一人、人間には自我があり、認識があり、行動がある。生き方は人間の数だけ存在するはずだ、そこに性別が影響しているか否かは個人の問題で、一般化はできない。もうやめよう。性別二元論を捨てて、もっと一人の人間を大事にしよう。こんな基本的なことを繰り返し文章にする2016年、未来のなんと遠いことか。