花・料理・服が好きな「女子力の高い女」という、男のための幻想にかためられた女子力大学

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 大学では学べない文化的素養・教養を学び「女子力」が身についた状態だと思われる学生たちの会話が、かわいいお花屋さんだのカフェを開くだの服だの料理だのに終始しているというのは、何を意味すると言うのだろう。

 「花」「料理」「服」といった要素が女性の持つべき教養とされることは、あまりにも前時代的なステレオタイプだ。この報告書には、ボクシングを楽しむ女性やDJプレイに一家言ある女性や、政治を語る女性は出てこない。これまで「女性的」とされてきた要素に限られているのだ。学生を応援したいのであれば、そうした一辺倒な価値観のみを示すべきではない。趣味・嗜好の多様化を推奨するべきだろう。

 そこにあるのはただ「女」という幻想だけだ。女子学生を、抑圧的な女性像の型にはめることが、「女子力の向上」であり「女性の教養」だとしてポジティブに語られている。

 別にいい。日常会話で相手の服を褒めることぐらいするだろう。しかし、その程度のことが「女性の教養」と呼ばれることは許せない。かわいい花屋を見つけて指摘することのどこが教養なのだ? そんなこと、幼稚園児でも出来るではないか! 「私たち女子力上がってきたねー」というセリフは以前から何がしかの進歩が見られたという観点での発言だと考えられるが、「かわいい花屋の発見・指摘」が躍進の結果として認められる評価軸とは、一体女性にとって何の価値があるのだろうか

 あまりにも当事者性のない企画には、消費される客体としての女性性の姿を見ることができる。視線の対象になるためだけの女性を作り出す計画。まるで工場だ。

 宗像市のプロジェクトでは、同時に「宗像オヤジ再生カレッジ」という企画も考えられていた。ターゲットは宗像在住の男子大学生と若い父親だ。これは「女性の教養」の対として「男性の教養」が設定されたということだろう。講座の例には「親父らしさ発掘講座」「料理力UP講座」が挙げられている。こちらも「親父らしさ」という定義不明の概念が用いられており、全貌は見えてこない。しかし、もしかつての家父長制的な父親像のことを「親父らしさ」と呼んでいるなら、やはりこれも極めて前時代的だと言わざるを得まい。「親父」=妻を持ち、子を成した男性が男性の理想形として唱えられることは現在のライフスタイルの多様化に逆行している。これもまた、男性を「男はこうあるべき」という枠に押し込んで成形しようとする暴力的な思考回路である。「男性」「女性」の二項対立で人間が切り取られることがいかに残酷なことであるか、これを考えた専門家なる人物は理解していないに違いない。

 一人一人、人間には自我があり、認識があり、行動がある。生き方は人間の数だけ存在するはずだ、そこに性別が影響しているか否かは個人の問題で、一般化はできない。もうやめよう。性別二元論を捨てて、もっと一人の人間を大事にしよう。こんな基本的なことを繰り返し文章にする2016年、未来のなんと遠いことか。

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