前回は、『SCOOP!』と福山雅治さんについてが中心になってしまったため、本来書きたかった女性の登場人物たちについてぜんぜん言及できてなかったということで、今回は『SCOOP!』の女性たちについて書いてみたいと思います。
『SCOOP!』に出てくる主な女性は、写真週刊誌「SCOOP!」の副編集長の横川定子(吉田羊)と、同週刊誌の新人記者の行川野火(二階堂ふみ)のふたりです。定子は、編集部に来たばかりの野火に、傍若無人なフリーのカメラマン・都城静(福山雅治)とのコンビを無理やり組ませます。静の野火に対する第一印象は、「きゃりーぱみゅぱみゅみたいなやつ」で「ああいう奴は、キャラクターのパンツを履いていて処女に違いない」というものでした。
野火は、もともとファッション誌の編集者を目指していただけに、写真週刊誌で芸能人のスクープをものにすることには興味がなく、知っている芸能人を見て興奮したりする始末。芸能人のスキャンダルを追うこの仕事を「最低の仕事」と言い、そんな仕事をしている静にもあまりいい感情は抱いていませんでした。
反発しあっている二人がともに行動するうちに気持ちが近づくという物語はありふれていますが、『SCOOP!』の大根仁監督のすごいところは、反発しあうふたりが近づくその瞬間を、言葉で説明するのではなく映像でふわっとこちらに伝えてくるところだと思います。
いやいやながらも、スクープを追いかけるうちに、野火は、この仕事のことをいつの間にか「最高!」と感じてしまいます。そして、その瞬間から、野火と静の感情は変化していくのです。
この映画は、昨今には珍しいストレートな恋愛映画でもあります。しかし、恋愛映画には厳しい目線も向けられています。安易に「女性は恋愛が好きだから、どこかで見たことのある恋愛ドラマの受けの良いシーンを、前後の文脈関係なく、これでもかとちりばめましたよ」というものばかりが作られているから、「恋愛映画はクソ」という認識ができてしまっています。私自身、「恋愛関係を排除した、人間と人間の感情が深くつながっているもののほうが、恋愛よりも濃い関係性が描かれているし、ぐっとくる」というのが、昨今の思いとしてありました。例えば、『マッドマックス 怒りのデスロード』なんかがそうであったと思います。
しかし、よくよく考えてみれば、別に恋愛の物語自体が「悪」ということではありません。関係性をすべて恋愛に落とし込まれなくてもいいのに、「とりあえず最後に恋愛関係におとしこめ! そういうのが女性に受けるんだろう」という安直さがダメなだけです。
この映画はどうだったでしょうか。「静と野火は安易に恋愛関係にならないほうがよかった」という意見を見かけたのですが、私も見る前は「自分もそう思うはず」と思っていました。でも実際に見てみると、さっき書いたように、ふたりがシンパシーを感じて気持ちが近づくシーンがきちんと描かれていたし、野火の静への気持ちが大きくなっていく空気も描かれていて、とってつけたような恋愛だとは思いませんでした。その上、この映画には、静と定子もなにやら、関係性があるようで……。
ここから激しくネタバレになります。
実は、静と定子は、夫婦のような関係を長年築いていました。しかし、その関係が続いている中で、新たに野火との愛を育むことだってあります。「ふたりの人と同時に付き合うのはなし」というのが世間のセオリーですが、それこそ、人と人にはいろんな関係があります。男女が必ずしも性的な関係にならなくてもいいし、性的な関係にあって、その上に第三者との関係があったとしても、どちらかがどちらかを縛る必要はないと考える人もいるでしょう。
映画の終盤で静は死にます。そして定子と野火は、静の残した写真を一緒に現像します。このとき私は、現像する最後の一枚が野火を撮ったものだと予想ができていたので、「この写真を定子が見ないでいられたら……」と思いました。
でも、その私の思いは裏切られました。定子は、静が残した野火の寝顔の写真を見て、静が最後に愛した女性が野火であることを知ります。こういうシーンがあると、通常は、ひどく悲しむか、野火に嫉妬をするかのどちらかになるのが普通でしょう。でも、定子はそのどちらでもありませんでした。静が最後に愛したのは、野火だったのだと、冷静に野火に告げるのです。
好きな男が別の女と何かあったことがわかって、そこで嫉妬に狂わずに、しかも過剰に耐えたりしているのでもなく、ただ受け入れるというシーンを私はほとんど見たことがありません。第三者が現れたら嫉妬するのが当たり前だと思っていたからこそ、定子にあの写真は見せないで……と心の中で願ったのだと思います。でも、定子のあの行動を見て、大根監督が、女性を、単に男を巡っていがみ合う存在ではないと思っていると感じました。
もちろん、受け取り方によっては、なぜ女だけが男のわがままを受け止めないといけないのかという見方もあると思います。けれど、定子は、セックスのひとつで自分と野火の序列を感じる必要はなく、そのことで静との関係性が変わるような間柄ではなかったのかとも思えます。定子が野火に「静が最後に愛した女」だと言ったのも象徴的です。決して「静が一番愛した女」ではないということは、定子も前後はしているけれど、静からの愛があったということだし、だからこそ、野火と争う必要がないと思ったのでしょう。
そういう意味では、静と定子はすでに、男女であっても性的な関係があっても、バディだったのかもしれないなとも思いました。そして定子と野火も、この後もともに良い仕事をしていくことでしょう。
定子は、静を野火の教育係にしむけた張本人です。そして定子は、静と野火が性的な関係に落ちるかどうかの「賭け」も静としていました。それは、ホモソーシャルで結ばれた男たちのやるような下衆なことでもありますし、これがもし静とチャラ源(リリー・フランキー)の間や、静と馬場(滝藤賢一)の間で取り交わされた「賭け」だったとしたら、意味が違ってきます。でも、静と定子との間であれば、それらとは違う解釈が生まれるのです。
いいように解釈すれば、定子は、何らかの理由で芸能ネタしか写真を撮らなくなった静に、もう一度、政治ネタも撮るカメラマンとしてカムバック(ロッキーのように)してほしかったのだと思います。しかし静をたきつけることが出来るのは自分でもないし、ましてやチャラ源でもない。野火に静とコンビを組ませたのは、野火にその役割を担ってほしいという思いがあった。つまり静との「賭け」は、この狙いがうまくいくかという「賭け」でもあった、と取ることもできそうです。そして、男女の間でそんな「賭け」をしてしまうくらい、二人の仲は、普通の男女の関係を超えていたのだと、もしかしたら、本当にはそう思えないとしても、やせ我慢をしてでも、そんな仲であると、お互いに確かめあいたかったのかなと思いました(決して良くはないけれど、やっぱりホモソーシャル的でもあります)。
静と定子は長い間特別な関係にあったけれど、お互いにずぶずぶにならず、冷静に距離を保っていました。本当の意味で、静が離れられないずぶずぶの関係性だったのは、実は悪友ともいえるチャラ源だったのではないかとも思います。チャラ源と静が夜の街を歩くシーンは、映画の中で一番濃く、美しく撮られていました。だからこそ、定子は、野火よりもチャラ源に嫉妬しているようにも見えました。
『SCOOP!』を見て、人の愛にはいろんな形があるもので、その解釈は一筋縄ではいかないものなのだなと思わされましたし、私は「恋愛もの」が嫌いなのではなく、判を押したような「恋愛もの」しかないことが嫌いなのだなということが、わかった気がしたのです。