社会

生まれついての女(じゃない!):C.L. ムーア「ノー・ウーマン・ボーン」と(未来の)フェミニズム理論【女とSF】

【この記事のキーワード】

女に生まれるわけじゃない:C.L. ムーア「ノー・ウーマン・ボーン」

 物語の登場人物は、一人の女サイボーグと彼女を巡って争う二人の男。世界的に有名な、「その不完全さゆえに誰よりも愛された」アーティスト・デアドラは、火災事故で身体を大きく損傷し、唯一無事だった脳を「人間以上に完璧な」ヒューマノイドの身体に接続されたサイボーグとして生まれ変わる。自分が(まだ)人間だ、と主張する彼女は、それを証明するためにパフォーミング・アートの舞台に復帰することを熱望する。これに反対するのは、彼女の義体を設計した、彼女を機械だと見なす科学者マルツァー。二人の対立と、それにも拘わらず存在する奇妙な「結婚よりも強い」絆を見守る、元マネージャー・ハリスの目には、彼女は思い出の中の姿と新しい機械の身体のあわいで移ろいでいるように映る(物語は彼の視点から語られる)。

 特訓の甲斐もあり、復帰公演は「人間以上に完璧な」ダンスと歌で飾られ、観衆の大歓声の中、デアドラは自分自身を証明したように思われる――が、それもつかの間、「彼女は自分がもう女じゃないって分かっているんだ」というマルツァーの言葉に予言されたかのように、公演後なにか強烈な不安に襲われる。これにより「怪物を作り出してしまった」という絶望を深めるマルツァーに対して、けれど彼女は語る。自分は人間以下の機械なのではなく、人間以上なのだと――「だけど、私みたいな人が他にいてくれたらって思う。マルツァー、私は寂しいんだ」。

 お察しいただいたかもしれないけど、この話は前回紹介した『フランケンシュタイン』を下敷きにしている。正確に言えば、これは「フランケンシュタインの怪物」とは女の物語なんだと読んだ、最初のフェミニズム作品の一つだ。

 タイトルの “No Woman Born” は、詩人ジェイムス・スティーヴンスが書いた、アイルランド神話に登場するもう一人のデアドラに寄せた詩から抜粋されたものだ。 “There has been again no woman born / Who was so beautiful … (あんなにも美しい女はついぞ生まれることはなかった…)”。だからこの小説は、「美女ありき」という訳題が与えられている。けれど小説を読み終えた私たちは、この記事の冒頭で挙げた “One is not born a woman, but becomes one(人は女に生まれるのではない、女になるのだ)” というフェミニズムのモットーに倣って、これを「女に生まれるわけじゃない」と誤訳してみたくなる。というよりもこのタイトルは、「他に生まれることのない(くらい美しい女)」、そして「女は生まれついてなるものじゃない」というダブル・ミーニングなのだ。

 この物語では、デアドラが人間なのか否か、という問いは、彼女が女なのか、というのと全く同じ意味だ。「彼女には性器がない。彼女はもう女じゃないんだ」、だから人間じゃない、と言うマルツァーに対し、ハリスは「彼女は変わらず愛らしいままだ」と言い返す(ところで「彼女はもう女じゃないんだ(“She isn’t female anymore”)っていう台詞は色々矛盾していて興味深い。彼女がもう生物学的身体のレベルでは女ではないのなら、マルツァーにとって機械である彼女を「それ(It」ではなく「彼女(She」と呼ぶのはどういうことなんだろう?)。

 ハリスという男の視点から語られたこの物語では、男/女のカテゴリーに分けられないモノは人間としてカウントされない(サイボーグというのが荒唐無稽に思われる人は、出生前診断でXY染色体「異常」が発見された胎児が、男女に「産み分け」られる生殖テクノロジーを思いうかべればいい)。だからデアドラにとって舞台に復帰することは、女として認められることを勝ち取る闘いに他ならない。女は生まれるものじゃなく、なるものなんだ、というわけだ。この「女性性」というのは、振り向き方、歩き方、といった、家父長制によって決定された「女らしい仕草」によって身体につけられた意味であることを、女優であるデアドラはよく理解している(最近だと、男性メンバーのみから成る「宗像市都市再生プロジェクト専門家会議」によって提言された「女子力大学」なんかはこのいい例だろう)。だから彼女は言う。「何も心配してないわ。(…)今までずっと観客に与えてきたものは、まだちゃんと与えることができる。ただ今までやったのよりずっとバラエティに富んで、深いものになるだけよ」。

1 2 3 4

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。