生まれついての女(じゃない!):C.L. ムーア「ノー・ウーマン・ボーン」と(未来の)フェミニズム理論【女とSF】

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 この小説は同時に、この記事の冒頭で挙げたような、20世紀後半以降のフェミニズムにとっての重要な議論――つまり、クィア理論だとか、サイボーグ・フェミニズムだとか、フェミニスト障害学だとか――を、ほとんどそのまま予言するようなものにもなっている。興味深いことに、サイボーグ・フェミニズムの創始者であるダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」は、多くのフェミニストSFに言及しながら、なぜかこの作品に触れることはない。ひょっとしたらそれは、この小説があまりにハラウェイの議論そのまま過ぎて、これを読めばハラウェイの話を読まなくて済んでしまうからかもしれない! だから多くのフェミニスト理論家は、折に触れこの小説を彼女らの主張に従って読み替えていった。

 けれどその中で、少なくとも幾つかの有名な論文を調べた限りでは、一つだけ触れられていない、重要な、そしてちょっと危ういポイントがある。それは、この小説は穿った読み方をしたとき、デアドラは彼女の「敵」であるマルツァーを愛しているんじゃないか、って印象を与えるように書かれていることだ。

 「自分は人間=女なんだと認めてほしい」というマルツァーに向けられた彼女の叫び、ハリスが感じる二人の「奇妙な、冷たい、情動のない、けれど結婚よりも強い絆」、「私は彼(マルツァー)のものじゃない。彼はそれを、私を、所有してるわけじゃない。法的にも、それから…」と奇妙に口ごもるデアドラの姿、それから小説を締めくくる、「私は寂しいんだ、マルツァー」という言葉。もちろんこれは基本的には、自分と同じサイボーグの存在がいない、という彼女の孤独を意味している。けれど小説のラストで、彼女が自分を「世界に一羽しかいないので、自分を燃やして生き返る形でしか再生産できない」フェニックスに例えるように、デアドラは自分の孤独を、何か抽象的な人との繋がりや、女同士の連帯が築けないことじゃなく――彼女は「世界に一人の女」としての自分を証明しようとしているのだから――、異性愛的再生産という枠組みで捉えているように思われる。

 そしてその時、この小説は、「自分を女だと認めてほしい」デアドラと、さっき書いたような葛藤を抱えながらも、彼女を「自分が作り出した機械であって女ではない」と考えるマルツァーの、悲劇のラブ・ストーリーに姿を変えてしまう。これは一見非常に反フェミニスト的な読みにも思える――だからこそ多くのフェミニストは、この読みをあえて飛ばしてきたんだろう、たぶん。けれど私たちは、この二人の「語られない愛」を考えることでこそ、フェミニズムにとって重要な問いを考え始めることができるんだと私は思う。例えば、自分を「作り出した」ジェンダーやテクノロジーという権力を、それでも/それゆえに愛してしまうことの意味。あるいは、二人の関係を嫉妬するハリスという男から語られるこの物語に――そして私たちの社会全体に潜む、男女の繋がりや緊張関係を、どんな時でも異性愛の枠組みでしか捉えられないバイアス。

 「ノー・ウーマン・ボーン」は、日本ではここ最近マイナーなSFの中でもさらにマイナーなパルプ・フィクションというジャンルに属していて、その重要性の割に特に現代日本では十分な読者を得ているとは言いづらい。けれどこの記事を通して少しでも伝えたかったように、彼女のビジョンは、彼女にとって未来のフェミニストがようやく語り始めた問題を、鋭く照らし出している。繰り返しになるけど、SFにそんな力があるのは、このジャンルが単なる荒唐無稽な空想じゃなくて、現実の社会にしっかり根差した問題意識に基づいた、 “What if” (でも、もし~だったら)という想像力に駆り立てられてるからだ。じゃあ次回記事以降はいよいよ、もっと近年のSF小説を取り上げてみよう。
(Lisbon22)

冒頭のクイズの答え:
シモーヌ・ド・ボーヴォワール(『第二の性』)、ジュディス・バトラー(『ジェンダー・トラブル』)、イヴ・セジウィック(『男同士の絆』、ダナ・ハラウェイ(「サイボーグ宣言」)。

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