詩人・小説家の最果タヒさんが、初のエッセイ集を刊行されました。『きみの言い訳は最高の芸術』(河出書房新社)。「最果タヒ.blog」に連載されていたブログが書籍化されたものです。
宇多田ヒカルのこと、悪口のこと、ロックのこと、震災のこと、冬のアイスクリームのこと、クリスマスのこと、お化粧のこと、学校のこと、インターネットのこと、言葉のこと、そして友達のこと。
誰もが知っていて、同じ時代に生きている誰とでも、当たり前に共有できること。当たり前すぎて、友達と会ったときなんかには意外と話題にのぼらないかもしれない、でもちょっと話してみたいよなと思ってはブログやツイッターや掲示板なんかに書き込んでしまう、そしてついつい読んでしまうこと。この本に書かれているのは、そういう他愛もない事柄です。
尊重するべき、って散々言われるんだけど、でも、私はやっぱり他人のことを自分と同等の存在としてみることはできない。だって、自分と違って内面も聞こえないし、感情すら表情で読み取らなきゃいけないし。疲れるよ。なんだあの生き物、っていつも思う。人間は、人間ですらちょっと消耗品として触れている所があると思うよ。だから、遠くなっていくことも、近くなっていくことも、好きな分量で決めてしまっていい。私は今はそう決めている。(中略)そういう関係は薄っぺらいっていう人もいるけれど、薄っぺらいのがちょうどいい人もいて、それがたぶん私。みっちり、ずっと一緒に居なきゃいけないなんてただの地獄じゃないですか。(「友達はいらない」)
ブログに書かれていた文章ということもあって、このエッセイはあまり「生きている人間の生々しい声」という感じがしません。いや、もちろん人間が書いているのだけども、それは顔が見える特定の誰かではない。こういうのをネット的と言うのかな、とも思いますが、ある種の匿名性があるというか、画面越しでしか知らない誰か、という感じがする。たとえば2ちゃんねるでもなんでも、同じインターネットの掲示板にいて(ツイッターでもいいです)、同じ文脈を共有していて、個人はほとんど特定できないから、取り立てて情が湧くということもないのだけれど、「なんとなく言っていることはわかるな」と思う。どこの誰かも知らないし、赤の他人だけど、たしかに画面の向こうには人がいて、その人たちと自分は何かを共有しているのだという、そういうぼんやりとした心地よさが漂っているのです。
おそらくこのエッセイの中に、「最果タヒ」という書き手というものはいないんじゃないかと思います。よくある筆者の強烈な個性が輝いているようなタイプのエッセイではない。ここに書かれているのは「最果タヒ」という人間独自の感性とか経験とか、そういうものが強く押し出されている文章ではなくて、だから読んでいる私たちも、強く胸を打たれるほど共感したり、「まるで自分のことのようだ!」とか思ったりはしない。ただ、そこにある言葉に対して「そうだな」と呟いてしまう。ちょっと他人ごとのように。
1 2