あなたは午後四時にオフィスを出て、保育園に子供を迎えに行く。帰宅後、タブレットで上司からのメールを確認する傍ら、週末に作りだめしておいた惣菜で夕食の支度をする。夫が子供をお風呂に入れている間に後片付けを済ませ、風呂上がりの子供と保育園で今日何をしたかを話しながら、持ち帰った業務をスケジューラで確認し、上司や同僚へメールを返す。子供が眠りについてPCを開けるようになると、先月導入されたばかりのソフトに悪戦苦闘しつつようやく今日の業務を終わらせる。勉強しなくちゃいけないな、と思いながらぼんやりFacebookを開き、同僚のディナー写真や学生時代の友人の近況に「いいね!」をクリックする。やがて眠気に耐えかねたあなたは、スマホを片手にベッドに入り、CCで送られてきた部内メールの束に目を通しながら、静かに眠りにつく。
どこにでもあるような、そして安倍政権が推進する「働き方改革」によってますますありふれたものになるだろう、働く母の風景だ。8日の閣議後記者会見で、世耕経済産業相は「子供の宿題を見ながら作業ができる環境を整えたい」と語り、その手始めにテレワークを来年の通常国会から本格的に導入する考えを明らかにした。コミュニケーション・テクノロジーの進歩によって、カフェでも、電車内でも、リビングルームでも、ベッドでも仕事ができるようになることは、フルタイム労働制が前提にしてきた性別役割分業を問い直し、仕事と家庭の両立を可能にする、「ポストフェミニスト」な夢の実現であるようにしばしばうたわれる。新しいメディアによって可能になったフレキシブルな業務管理は、満員電車での通勤や職場の人間関係によるストレスからの解放、作業効率の向上、健全なワーク・ライフ・バランス、長時間残業からの自由、そして働き方のジェンダー的平等をもたらすのだ、と。
でも、本当にそうだろうか?
「より少ない報酬でより多い仕事を」
冒頭に挙げた彼女にとって、「仕事」はいつ終わるのか考えてみてほしい。PCでの業務だけじゃなく、山のようなメールチェックや返信が、持ち帰った「仕事」の一部なのは明らかだ。じゃあ、夕食の後片付けをしながら、いつ職場からメールが来るか待ち構えていることは? 部署内での話題についていくために同僚のタイムラインをチェックすることは? 子供が寝静まったあと、自宅PCに導入した新しいソフトの勉強をすることは?
もちろんこのどれも、勤務評定では「仕事」として数えられることはない。「子供の宿題を見ながら作業ができる環境を整えたい」という世耕経済産業相の言葉が極めて象徴的なように(「仕事」じゃなく「作業」という言葉を使っていることに注意)、テレワークなどを前提にした現状の「働き方改革」が含意しているのは、「残業を減らすために在宅で仕事をしろ、ただしその分の『仕事』は『仕事』として認めないけれどね」という命令だ。職場で行われていたメール管理を家で行わせることが「フレキシブルな働き方」の目指すところの一つなら、それは仕事を給料の発生しない「作業」として目に見えないところに押しのけることでしかない。この時あなたが実際にする「仕事」は減るどころかむしろ大きく増えることになる。冒頭の彼女の例で言えば、彼女がオフィスを出てから寝るまでの間、何らかの形で「仕事」をしていない時間はないに等しいのだから。
つまるところ、新しいコミュニケーション・テクノロジーによって家からでも仕事ができるようになることは、労働者(特に女性の労働者)が「より少ない報酬でより多い仕事を」するように求められることなのだ。Melissa Gregg, Work’s Intimacy (2011: 未訳)は、オーストラリア・ブリズベンの主に知的産業に携わる労働者を対象にした聞き取り調査を行い、こうしたテレワークによって推進される「働き方改革」がはらむ問題を追及する。本のタイトルにもある、(在宅ワークによって)「仕事が身近になる」こととは、これまで「仕事の外」とされてきた家庭や友人との交流などの領域に、仕事が完全に浸透することを意味している。グレッグが主張するのは、これが新しい形の「情動労働」(肉体や頭脳だけでなく、感情のコントロールなどを必要とする労働)なのだ、ということだ。
グレッグの調査で浮かびあがるテレワークの問題は以下のようなものだ:
1.単純な作業量の増加
(同僚全員にCCを送るようなコミュニケーション文化のもとで膨れ上がるメール作業や、常に更新される新しいテクノロジーに追いつくための勉強など)
2.職場を離れている間も常に仕事に追いついていないといけないというプレッシャー
(常にオンラインで応答可能でいないと「仕事をしていない」と思われるという焦り)
3.こうした「仕事」が上司や組織に「仕事」として認められない状況
(賃金は支払われないし、そもそもメール作業などを「仕事」だと考えてもらえない)
4.3に基づく組織的なサポートの不在
(会社全体での公的なガイドラインや技術指導などがなく、各人が自己責任で学ばなければ置いて行かれるという状況)
5.4の結果として「自分が選んだ仕事」と「強制された仕事」の境がなくなること
6.こうした不利益を被るのは、主に不安定な仕事に就く人であること
(キャリアアップのために不安定な雇用形態で大手企業に勤める人やフリーデザイナー、インターン生など、「投資的労働(=将来の利益のために、現在の労働をただちに報酬に見合わなくても「自分への投資」として受け入れること)」に従事する人たち)
7.そして最後に、家族や友人との「親密な時間」が、仕事上の有益な繋がりや充足感にとってかわられること
一言で言えば、グレッグが批判しているのは、現状テレワークが構造的な「不払い労働」の温床になっていること、そしてこれが働く人自身にとっても「労働」として考えることさえできない状態になっているということだ。彼女がインタビューした人の多くが、上に挙げたような負担を訴えつつも、これに何らかの対価や補償を求めるのではなく、生活を成り立たせるためのある種の「必要悪」として甘受している。これはもちろん、こうした働き方を選ぶ人の組織内での立場が弱く、しばしば他に選択肢がないからだ。
「仕事を愛する」ということ
「在宅ワークは、前もって締め切りを定める職場の文化を変えはしないし、家事の負担を共有したがらない夫たちを変えたりもしない。テクノロジーによって促進されたフレキシブルな職場環境は、単に長い勤務時間を可能にする機会を作り出すだけだ。支払い労働時間が過ぎたからといって、仕事にフタがされることなんてまずあり得ない」とグレッグは主張する。過労とハラスメントから自殺を余儀なくされた電通の新入社員を挙げるまでもなく、現代の日本において、長時間の時間外労働や休日労働を可能にする労使協定、いわゆる三六協定の見直しが必要なのは言うまでもないことだ。けれどこれをテレワークに基づいた現在の「働き方改革」に従って改正したとしても、その行き着く先は、言ってみればもはや残業としてすら認められない、終わりのない「ホームワーク」でしかない。
そしてこうした組織的なサポートなしの「変革」の負担を被ることになるのは、多くの場合、この「変革」の受益者であるべきはずの働く女性、とりわけ働く母だ。上司・同僚やパートナーの理解と協力、在宅ワークについての職場全体の態度、新しいテクノロジーについての組織的教育や技術的サポート、メール管理についてのガイドライン、保育制度の質・量の向上など(これらのリストはまだまだ続くだろう)が得られない限り、「働き方改革」は、単に家事とテレワークという二重の「不払い労働」の常態化でしかありえない。
もちろん、それでも彼女らがこうした働き方を選ぶのは、生活を成り立たせるために他に選択肢がないことがほとんどだろう。けれど同時に、メールやツール管理に関しての公的なガイドラインを与えられず、LINEで雑談交じりに業務の進捗を報告し合うとき、彼女たちは自分たちのやることを、与えられた仕事ではなく、仕事以前の当然やらなければならない「タスク」として、自ら積極的に引き受けていく。
この状況は、いわゆる「やりがい搾取」と呼ばれるあり方と何ら変わらない。グレッグの調査対象者の大半が図書館員、若手研究者、デザイナーなどの低賃金知的労働者であることもあって、彼女らは現状を受け入れる理由として、単純な経済状況に加え、自分はこうした「仕事を愛している」のだということをほとんど必ずのように口にする(グレッグの本のタイトルにある “intimacy” という言葉は、普通は恋愛や性愛などを指す)。仕事から得られる充足感や社会的意義は、金銭報酬や安定した社会保障の穴埋めをするに十分なものなのだ、と。こうしてうたわれる「仕事への愛」は、特にいわゆる「ブラック企業」に顕著なように、賃金抑制の常態化、無償の長時間労働、不安定な雇用形態といった搾取構造を支えるものであるのはもはや言うまでもない。
もちろん、仕事にやりがいや充足感を抱くことはそれ自体素晴らしいことだし、スティーヴ・ジョブスの言うように、「自分がやっている仕事を愛すること」はいい仕事をするための条件なのだろう。けれど、コミュニケーション・テクノロジーの発達によって、ベッドの上で愛する人と過ごす代わりに愛する仕事をするとき、「仕事を愛する」っていうのはどういうことなのか、もう一度考えてみなくちゃならない。
ジョブスの言葉が今後ますますリアルになるのは、私たちが生きようとしている社会が、ほとんど文字通り「仕事」と「愛」が分けられなくなっていく社会だからだ。「子供の宿題を見ながら作業をする」とき、私たちは愛の名のもとに、賃金の支払われない「仕事」をする。愛する家族との生活のために、ほとんど同じような仕方で仕事を愛し、いくつもの不条理を自ら引き受ける。あなたは愛には支払われなくてはならない代償があることを知っていて、愛のために喜んでそうした代償を引き受ける。けれどそうした代償は、ひょっとしたらあなたが信じているほど絶対に支払わなければいけないものではないかもしれない。
(Lisbon22)