
武田砂鉄/論男時評(月刊更新)
本サイトを読まれる方が日頃手にすることがないであろうオヤジ雑誌群が、いかに「男のプライド」を増長し続けているかを、その時々の記事から引っ張り出して定点観測していく本連載。
このところ、さすがに放言の頻度が収まったようにも思える曽野綾子氏だが、「出産したら母親は会社をお辞めなさい」などと時代錯誤も甚だしい発言を立て続けに吐いていた頃、知人から「でも、彼女の小説作品は素晴らしいと思うけどね」と、あたかも反論のように言われて困ったことがある。文化人や芸能人がこの手の言動で問題視された際、でも作品は素晴らしいのだから否定すべきではないとの声がこぼれることがあるけれど、こちらは特定の言動を問うているのであって、存在を丸ごと刈り取ろうとしているわけではない(それが連続すればそういう気持ちになることはある)。
伊集院静氏の小説は何冊も読んでいるし、日ごろ自分が好んで使わない言葉を敢えて用いればその「男気」に打たれることもある。しかし、極めて乱暴に「女・子ども」を片付ける筆致を見かけるとそのまま放置できない。大作家のエッセイや人生相談は、そういう蔑視を放任した上で味わうべきものなのか。そうは思わない。その都度、突っ込みたくなる。
私も仙台との往復を、指定席、グリーン席に座るが、そこにディズニーランド帰りの親子が騒いどるのを見たら、窓から放り出したくなるよ。そういう母子は生きている必要はないと思っとる。
伊集院静(伊集院静の「悩むが花」/『週刊文春』2016年11月10日号)
『週刊文春』で連載されている「伊集院静の『悩むが花』」は間もなく連載300回を数える人生相談。その回答は、男とはかくあるべしとの指南に至ることが多い。男の美学を個人に投じる分には、その美学を受け入れるか受け入れないかは読者次第であり、私はあまりそういった男らしさに感化されることの少ない男なので概ね素通りするのだが、その美学を裏打ちするために、子どもや女性を殴打するような意見を述べるならば立ち止まることになる。
質問者は、小学生と幼稚園の子を持つ「39歳・女・主婦」。家族でセブ島に旅行へ行くことになり、いざ飛行機にチェックインすると、なんと会社経営者の夫だけビジネスクラスで、私(母)と子供たちはエコノミークラスだった。旦那は「俺は一家の大黒柱。激務で疲れているのだからよい席で休むのは当然。幼いうちから社会の厳しい現実を教えるべき」と言う。女性は当然、「こんな家族旅行、聞いたことがありません!」と憤慨している。自分は「激務で疲れている」という個人的動機と、子供には「社会の厳しい現実」を教えるべきという躾が混在しているのが奇妙だが、伊集院は開口一番「私はご主人の考えが端っから間違ってはおらんと思うよ」と答える。「敢えて言えば、奥さんもビジネスに座らせてもいいかと思うがね」と続けた直後に「子供は一番安いシートに乗せなきゃ、ダメだ」と書く。
子供に裕福な思いをさせると、自分は他の子とは違うのだと誤解してしまう、その意識が根付くと一生取り返しがつかないとした上で、先に引用した発言に繋がる。「そういう母子は生きている必要はない」は、人工透析患者に対して暴言を吐き続けた長谷川豊を思い出してしまうが、とても作家が使う言葉遣いとは思えない。無論、例え話からの流れであることは重々承知だし、連載を毎回読んでいればこういう形容にも慣れてくるが、この手の慣れがマッチョな世間体を育んでいることに気付かなければならない。
そもそもこの質問の記載にある旦那に対して、皆さん、言いたいことが一つあるだろう。私もある。おそらく同じだろう。それではご唱和ください。「オマエもエコノミー乗れよ」。ご唱和ありがとうございます。小学生と幼稚園の子を持つ母親がセブ島までの道中(成田からおよそ5時間半)を騒がず泣かずいられるよう1人で見ることを「激務」と呼ぶが、そういう観点は欠けたまま。
こういった回答は「言いたくても言えない男の本音」として歓待されるのだろうけれど、年月をかけて進めてきた「働く女性」「男性の育児参加」という取り組みを土砂で埋めてしまう発言に思える。旧来の価値観を内心で維持するのは勝手だが、こうして公に撒かれっぱなしになるのは困る。
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