
ナガコ、吠える。
自民党による憲法改正草案のひとつとして、婚姻について定めた憲法第24条の刷新が掲げられている。現行憲法の定義する婚姻は、個人の尊厳と男女の平等性を重んじたうえで、「両性の合意のみに基づいて成立」する。が、改憲草案では「両性の合意に基づいて成立」(“のみ”を削除)等、数カ所を変更。新たに家族保護条項(「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」との一文)が書き加えられている。
また、自民党党首の安倍晋三首相のブレーン、伊藤哲夫氏が政策委員を務める超保守団体『日本会議』は、個人の人権を尊重する平等主義に基づいて制定された現行の憲法が“家族の解体”を招いたと主張。“美しい日本の再建と誇りある国づくり”を掲げ、政策提言と国民運動を行う同団体は、「個人の尊重や男女の平等だけでは祖先からの命のリレーは途切れ、日本民族は絶滅していく」ので、「家族の関係を憲法にうたうべき」との論旨により、憲法第24条改訂を訴えている。
こうした安倍内閣の一連の“家族”を重視する動きを受け、自分がより幸福に生きていくために “独身の個人主義”を選択している当方は、吐き気を催した。現行の憲法にある通り、婚姻は、するもしないも個人および当人同士の意志が尊重される選択制度である。その自由選択に対し、国家が憲法改正をもって干渉しようとする発想自体、気味が悪い。個々の人権やプライバシーを脅かす土足の暴力であると感じる。
今年9月に発足した市民運動「24条変えさせないキャンペーン」の呼びかけ人の1人である文化人類学者の山口智美氏(米モンタナ州立大准教授)は、「憲法で家族を定義し、法律があるべき家族像を示すことは、単身者や子供のいない人、性的少数者など多様であるべき生き方を否定し、人権を侵害することにつながりかねない」と指摘。山口氏は、messyにてライターの杉山春氏とともに本件についての対談を行い、人権侵害のみならず、社会保障面でも重大な影響をもたらすと警鐘を鳴らす(「家族は、互いに助け合わなければならない」の何が問題? 憲法第24条改正によって社会保障がなくなるかもしれない。/山口智美×杉山春)。
“家族”が嫌いな個人主義者
人権の観点もさることながら、私個人が最も不快感を覚える点は、婚姻条項を改訂する真の目的が“家族保護”にあるところだ。というのも、当方が結婚に躊躇する最大の理由は、「“家族”という制度が気持ち悪い」から。“家族”のしがらみが一切ない、2人だけの結婚であれば、ぜひ、したい。が、双方の親や親戚との付き合いを想像するだけで、具合が悪くなる。自分が親になるのも、産まれた子供に申し訳ない気持ちになってしまい、産んでもいないのに罪悪感に苛まれる。日本の古き良き家族愛や大家族の絆を謳ったテレビ番組やドラマ等の“家族礼賛物語”に至っては、吐き気を覚える。『日本会議』が理想の家族像として挙げた「三世代同居の『サザエさん』」などは、気持ち悪い物語の代表例である。
平たく申し上げれば「生理的に無理」。そんな私の超個人的な意見こそが、改憲派の危惧する“行き過ぎた個人主義”の典型例であり、“家族の解体”を誘発する一因子と認定されたとして。いかなる理屈や憲法を持ち出されたところで、「気持ち悪い」ものは「気持ち悪い」。この感情はあくまでも“個”に帰属し、他者や国や“全体”に管理されて然るべき代物ではない。
しかし、そもそも、なぜ、私はこんなにも“家族”が気持ち悪いのか。これまで、単純に「嫌いだから」と捉えて来たが、“家族保護条項”を憲法で正当化しようとする概念と遭遇しただけで胸の奥を握りつぶされたかのような不快感を抱く私は、どこかおかしいのではないか。「当たり前の生活環境・集団」としての家族に、すんなりと順応できない自分は人としての欠陥があるのではないか。
人様の家族には、何の恨みも文句もない。友人知人の家族と一緒に旅行に行くことも、子供たちと遊ぶことも大好きであり、望んで結婚・出産した人々には心からの祝福を贈る。仲睦まじい家族を見て、羨ましいと思うこともある。その感情は、「自分も家族を作りたい」という願望には結びつかない。「家族を作ることに抵抗や嫌悪感がなく、実際に幸福な一時を過ごせている」人々の心情への羨望であり、「嫌悪感を抱くのは自分のデフォルト。私の人生に同様の光景は訪れない」と即刻切り捨てる。それは、なぜか。