嫌悪の正体は怒りではなく、罪悪感
私の“家族嫌い”は、実際に自分の家族その人が嫌いというわけではなく、“個”が尊重されない状況への怒りに端を発する。家族のみならず、職業も、モテメソッドも、“型”が先に立ち、後付け的に人間を集約せんとする順番自体が「気持ち悪い」。この“個”への執着を最初に引き出した小社会が、私にとっての“家族”である。しかし、“個”が尊重されない「気持ち悪さ」にかえって執着し過ぎるあまり、未だ家族を肯定的に客観視できないばかりか、自らの結婚、出産を自然な人間活動として許容できなくなっているとも考えられる。
精神科医である岡田尊司氏『愛着障害』(光文社新書)によると、『愛着障害の人の重要な特徴の一つは、過度に意地を張ってしまうことである』『非機能的な怒りと同じような意味で、非機能的な執着と言えるだろう。自分の流儀に固執したり、否定されればされるほど同じことをしようとしたりする』(本文133P引用)とのこと。私自身も自分の固定観念に固執している自覚は少なからずある。
もしも私の“家族嫌い”が「意地を張っている成果」であるならば、私は一体、何を守るために、何を拒絶するために、意地になっているのか。と考えて、ようやく、もう一層深い芯に刻まれた嫌悪の正体に気付く。
私は“家族”に怒っているのではない。逆だ。“家族”に適応できない自分に対して、怒っているのだ。私が婿養子を取り、子供を生み、家督を継ぐことを心待ちにしていた祖母も父も、念願叶わぬまま死んだ。思春期の頃より、“個”を守りたい一心で家族とぶつかり合った。私は家族を傷つけた。家族を傷つけなければ維持できない“個”の持ち主である己を、私は責めていた。従順な娘ならば、家族を喜ばせることができたのに、何の因果か、超頑強な自意識を持って生まれてしまった。そんな自分に、罪悪感を抱いていたのだ。
なぜ、罪悪感を抱くのか。私自身が世俗一般に喧伝される“良き家族像”“家族礼賛物語”の刷り込みに翻弄されているのだ。たかだかドラマやアニメの虚構に対して吐き気を覚えるのは、容易に自責のスイッチが入ってしまうからだ。その事実を認めたくないあまりに家族や虚構を攻撃し、自分の弱さを防御したのだ。そのストーリーを追えない自分には、家族に歓迎されない欠陥がある。そんな自分で申し訳ないと、父母に泣いて謝りたい。これが私の本音なのだ。
しかし、手放しに謝るわけにはいかない。私も悪いが、父母も悪い。私はもっと“個”を、両親に見つめてほしかった。“林家長女”ではなく、ただの人間として愛してほしかった。役割扱いが、寂しかった。無論、私の言い分が正しい時もあれば、父母が正しい時もある。お互い様だ。それとこれとは別の話として、人間の“個”は尊重されるべきだ。“個”の犠牲のうえに成り立つ家族の幸せなんかいらない。“個”殺しによって正当化される“全体”など、戦争時代の負の遺産だ。命が悲しい。まるで愛がない。人間を馬鹿にしている。人間はもっと“個”であることを愛されるべきだ。いや、そうであってほしい。この願望もまた本音である。
なんと、か弱き“個”だろうか。ただのだだっ子である。これまで自分は自由選択において、怒りを込めて「家族を作らない」と公言してきたが、その内状は自分に怒り、責め、葛藤し、罪悪感を覚える状況にうんざりしている言い訳として家族を否定しているに過ぎない。いわく、ネガティブ依存である。これが最も「気持ち悪い」。
それでは、一回精算して、改めて家族を作るかと自問自答してみると、答えは否である。家族や実家は私の人生にとって、決して居心地の良い場所ではない。安心出来ない場所、自分を苦しめる場所、葛藤を生む場所である。とはいえ、私は今、母と妹と甥とともに、実家に住んでいる。私はこの家が好きではない。この家に縛られる状況が「気持ち悪い」。しかし、それでもここに住んでいるのは、父母への贖罪意識なのかもしれない。数多の期待と重責を背負わされた結果、家の役に一切立たない長女であることを、自分が思っている以上に未だ激しく、責め立てているのかもしれない。ならば、“家族”は苦しい。すでに苦しめられている以上、憲法でますます縛られるなど冗談じゃない。
家族からの解放
人間の精神性に家族が多大な影響を与えることは周知の事実である。また、家族との関係性は各家庭や個人によって多様であり、家族観にも千差万別の価値観の差異が生じる。家族は、人によっては毒にも薬にもなる。安心感を覚える人もいれば、家族に歴然とした問題があって縁を絶つ人もいる。特別な感情を抱くことなく、「当たり前の生活環境・集団」としてすんなりと順応する人もいる。100人いれば、100通りの家族観がある以上、家族が好きだろうが、嫌いだろうが、感情自体は漏れなく平等に尊重されるべきであると、私は考える。
以上のささやかな経験と感情により、当方は“家族保護”に反対する。また、そこに苦しみがあるならば“家族からの解放”を促したい。無論、家族との一時をかけがえのない幸福と捉える方々は、存分に団らんを楽しんでほしい。が、すべての人間が家族という単位に集約されることを「当たり前の幸福」と捉えているわけではない。家族への抵抗感の原因も、“行き過ぎた個人主義”のみにあらず。家族そのものの持つ近親者ゆえの愛憎やすれ違いといった普遍的なデメリットも、依然、存在する。その問題を解決する施策(カウンセリングの推奨・施設増加や家族の暴力被害より逃れるシェルター等)も同軸上で検討せぬまま、ご都合主義的かつ表層的に憲法で家族を正当化したところで、人間の幸福度は上昇しない。