美しく豪傑な女性の価値が、「強い子供を産めそう」で決められた中世 女性に「母性」を求める「家」はもういらない

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Photo by Tove Paqualin from Flickr

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「女性」という幻想は多くの場合女性を縛る。中でも「母性」は顕著に女性を縛りつけ、「子供を産む」という機能は、社会から過剰に期待されてきた。

そして「母性」と「家」は密接な関係がある。憲法24条に「家族は互いに助けあわなければならない」という「家族の尊重」が盛り込まれようとしている昨今、社会と母性の問題は今まで以上に他人事ではなくなっていくと筆者は考えている。

そこで今回は、今より遥か昔、中世において女性はどのように母性を期待されてきたのかを紹介する。数百年前の記録を探り、かつての女性がどのように「評価」されてきたのか考えてみたい。

「女人此国ヲバ入眼ス」

「女性がこの国を開いた」という意味である。これは鎌倉時代の歴史書「愚管抄」の記載で、著者の慈円によると、全ての人間は女性が苦しんで産むものなので、女性を養い敬わねばならないという。彼は、女帝は母であるがゆえに成り立つ存在だと考え、母性があるからこそ女性は権力を握ることが出来るのだ、と解釈していたようだ。実際には母としてではなく妻として権力を握った女性が数多く存在するので、慈円の説は事実誤認である。しかし、中世の高僧が「女性は母性によって尊重される」と認識していたことは非常に興味深い。当時の女性の評価基準は、美しさや家の仕事をこなす能力など数多く存在するが、最も重視されていたのは「子供を産む能力」なのである。

興味深いエピソードが13世紀の新潟にある。

1201年、越後国の有力豪族・城資盛が幕府軍と戦闘状態に陥った。場所は現在の新潟県胎内市に位置する鳥坂城(とつさかじょう)という山城である。結論から言うと城資盛は敗北して鳥坂城も攻め落とされてしまうのだが、この戦に関して幕府側の公式記録「吾妻鏡」は面白いことを伝えている。一人の女性が城資盛の兵として従軍し、「百発百中」「当たって死なない者はなかった」と評されるほどのすさまじい弓さばきで敵味方問わず驚愕させたというのだ。彼女の名前は板額御前。資盛の叔母であった。

傷を負い、生け捕りにされた板額は、武将たちの好奇の目に晒される。見た目の美しさに加え、捕虜になっても臆せず、男に媚びもしない態度は、大いに武士たちの興味をそそった。結果的に阿佐利義遠という武将が板額との婚姻を望み、彼女は義遠の妻になった。

このエピソードで興味深いのは、「女としての板額」への評価である。結婚を望む理由として「武芸に秀でた子供を得たい」と述べる義遠に対して、将軍頼家は「確かに見た目はいいが、心の激しさを考えたら誰がこの女を愛せるのか」と嘲笑した上で許したという。幕府に反旗を翻した人間が幕府側の公式記録で褒め称えられ、直接裁かれることもなかった、という点から見ると、彼女の武勇は武家社会において、大いに認められていたと言えよう。しかし、あらゆる敵を射殺すことができる女性であっても、期待されるのは何を差し置いても出産の能力なのだ。普通の人間なら愛せないと思われる気性の激しい女であっても、「強い子供を産めそう」という期待の一点で、彼女の価値は限りなく高まる

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