「女性」という幻想は多くの場合女性を縛る。中でも「母性」は顕著に女性を縛りつけ、「子供を産む」という機能は、社会から過剰に期待されてきた。
そして「母性」と「家」は密接な関係がある。憲法24条に「家族は互いに助けあわなければならない」という「家族の尊重」が盛り込まれようとしている昨今、社会と母性の問題は今まで以上に他人事ではなくなっていくと筆者は考えている。
そこで今回は、今より遥か昔、中世において女性はどのように母性を期待されてきたのかを紹介する。数百年前の記録を探り、かつての女性がどのように「評価」されてきたのか考えてみたい。
「女人此国ヲバ入眼ス」
「女性がこの国を開いた」という意味である。これは鎌倉時代の歴史書「愚管抄」の記載で、著者の慈円によると、全ての人間は女性が苦しんで産むものなので、女性を養い敬わねばならないという。彼は、女帝は母であるがゆえに成り立つ存在だと考え、母性があるからこそ女性は権力を握ることが出来るのだ、と解釈していたようだ。実際には母としてではなく妻として権力を握った女性が数多く存在するので、慈円の説は事実誤認である。しかし、中世の高僧が「女性は母性によって尊重される」と認識していたことは非常に興味深い。当時の女性の評価基準は、美しさや家の仕事をこなす能力など数多く存在するが、最も重視されていたのは「子供を産む能力」なのである。
興味深いエピソードが13世紀の新潟にある。
1201年、越後国の有力豪族・城資盛が幕府軍と戦闘状態に陥った。場所は現在の新潟県胎内市に位置する鳥坂城(とつさかじょう)という山城である。結論から言うと城資盛は敗北して鳥坂城も攻め落とされてしまうのだが、この戦に関して幕府側の公式記録「吾妻鏡」は面白いことを伝えている。一人の女性が城資盛の兵として従軍し、「百発百中」「当たって死なない者はなかった」と評されるほどのすさまじい弓さばきで敵味方問わず驚愕させたというのだ。彼女の名前は板額御前。資盛の叔母であった。
傷を負い、生け捕りにされた板額は、武将たちの好奇の目に晒される。見た目の美しさに加え、捕虜になっても臆せず、男に媚びもしない態度は、大いに武士たちの興味をそそった。結果的に阿佐利義遠という武将が板額との婚姻を望み、彼女は義遠の妻になった。
このエピソードで興味深いのは、「女としての板額」への評価である。結婚を望む理由として「武芸に秀でた子供を得たい」と述べる義遠に対して、将軍頼家は「確かに見た目はいいが、心の激しさを考えたら誰がこの女を愛せるのか」と嘲笑した上で許したという。幕府に反旗を翻した人間が幕府側の公式記録で褒め称えられ、直接裁かれることもなかった、という点から見ると、彼女の武勇は武家社会において、大いに認められていたと言えよう。しかし、あらゆる敵を射殺すことができる女性であっても、期待されるのは何を差し置いても出産の能力なのだ。普通の人間なら愛せないと思われる気性の激しい女であっても、「強い子供を産めそう」という期待の一点で、彼女の価値は限りなく高まる。
一方、平時の女性の社会活動はどうだったのかと言うと、意外に自由である。
戦国期の職人たちを絵にした「職人歌合」を見ても、食料品や衣料品を売る商人は多くの場合女性の姿で描かれており、当時の社会において女性商人が珍しくない存在だったことが分かる。中世京都において、染色に使う「紺灰」の購入権を独占した四つの問屋のうち一つの店の主が「加賀女」という女性だったという記録も残っている。せわしない京都の街角で、女主人が商売に精を出す風景を想像できそうだ。当時は、「妻が家事・育児を担い、夫が外で働く」というはっきりとした性別役割分業はなかったように思われる。
また、中世の女性に土地の相続権があったことは有名で、土地の揉め事の際も提訴する権利は男女に等しく存在していた。先ほどの板額御前の故郷・越後では、城一族の戦の80年ほど後、意阿という尼が裁判を起こしている。父親の道円が遺した所領の相続について不満を感じた意阿は、土地の配分を記した道円の遺言状が間違っていると言って幕府に訴え出たのだ。その他の相続人である三人の甥は初め結束して意阿と対立するが、そのうち仲間割れしていがみ合うようになり、裁判は泥沼化する。仔細はあまりに複雑なのでここでは省略するが、意阿の訴えが棄却されて一応の決着が着くまで、3度の裁判と16年の歳月を必要とした。
この3度の裁判のうち、1度目と2度目は意阿が自ら起訴したものである。肉親と猫の額のような土地を奪い合うのは鎌倉時代末期にはよくある光景だが、男の親族と張り合う意阿のたくましさには目を見張るものがある。棄却はされたものの、そうした訴えを起こす程度には、女性の権利が確立されていた、といえるかもしれない。
ただし、中世で女性が土地を相続する場合、その多くは本人一代限りの所有という条件付きだった。土地は常に「家のもの」であり、一族の中で伝えていく大事な財産なのだ。男女ともに家のために生きるのが、この時代の習いである。
「家」を単位に経済・政治活動を行う中世社会において、女性の地位は思いの外低くなかった。しかし、その身分は「家」の構成員となる子供を産む能力が女性にしかないがゆえに確保されていたものだ。社会における「家」の役割が低くなればなるほど、女性は母性から解放される。それは時代が下るにつれ、僅かずつ達成されてきたはずだった。
はっきり言おう。21世紀に社会が女性に母性を望むことは時代錯誤である。前近代から使い古された物差しは捨てて、我々は次へ進まねばならない。
参考文献
加藤美恵子「日本中世の母性と穢れ観」塙書房、2012年
田端泰子『日本中世の社会と女性』吉川弘文館、1998年
脇田晴子『日本中世女性史の研究』東京大学出版会、1992年