
(C)messy
妊娠が発覚してから出産までの、およそ10カ月(実際にはもう少し短い)。「妊婦」「お産」という言葉は、柔らかく温かみのあるイメージでねっとりくるまれているが、当事者にしてみれば様々なトラブルが常に付きまとい、なかなか壮絶な期間だ。
私は、妊娠期間中体重が22キロ増え、身体は重いわ股関節や恥骨は壊れそうだわ、むくみや痒みとも闘い、最後はまさかの緊急帝王切開で長い妊娠生活にやっと幕を閉じた。「産んでしまえば身体は楽になるよ」という産科医の言葉を信じて耐えていたが、いざ出産を終えての入院中は絶食が続くし、点滴漬けだし、傷が痛くて前屈みで過ごしていると今度は腰痛になるしで、ちっとも「楽になった」と感じる瞬間はなかった。退院したら、産褥期を終えたら身体は楽になる、という意味だったのか?
初めての入院生活だったので、病棟での生活そのものにも不安を感じていたが、もっとも苦痛だったのが「授乳室」という空間だ。
私の産院では母子同室で世話をするのではなく、新生児は新生児室で管理され、母体は病室。母たちは3時間ごとに、新生児室に併設された授乳室にゾロゾロと集まり、授乳をおこなう。ベッドからわが子を抱いて、そのまま横一列に並んだ椅子にズラッと腰かけ、乳房を出して子供に吸わせるのだ。最初にこの光景を見た時、私は「なんじゃこりゃ」と驚いた。
まず、皆が皆、はちきれそうに張った乳房と、大きく黒々とした乳輪を惜しげもなく晒して、まだ目の見えないわが子の唇を引き寄せている光景にギョッとしたわけだが、その光景は2~3回見ていれば慣れた。私が最後まで溶け込めなかったのは、彼女たちがまるで、「一人の確立された人間であることすら忘れてしまっているレベルで、聖母のような行動」をとっているように見えたためである。
「ふにゃらら…ねっふにゃらら…ねっ」
授乳室に入ったらまずはオムツ替え。1人1つのベビーベッドがズラッと横に並んでいて、新生児たちもズラッと寝かされている。これは別にいい。そこに大人の女たちが出向き、わが子の下の世話をするのだが、ふと横を見てみると、何と皆、微笑んでいるではないか! そして誰からともなく「ふにゃらら…ねっふにゃらら…ねっ」という何かが飛んでいるような柔らかい音、もとい声がする。彼女たちは皆、下の世話をしながら、わが子に「話しかけて」いるのだ。ちなみに、この「ふにゃらら」のところは、何を言っているのか聞き取れなかった。
オムツ替えが終わると、わが子を抱いて次々と椅子に腰かけ授乳を始める。その時も、乳房を露わにしながら、乳房に吸い付くわが子をじっと見つめながら、「ふにゃらら…っ?ふにゃらら…っ?」と、愛おしそうな視線と声色で、何かを問いかけている。おそらく状況からして「美味しいかどうか」を訊ねているのだろう。
この部屋にはとにもかくにも「柔らかさ」しか存在していない。これだけの人が居るというのに、「おはよー」とか「調子どう?」とかの日常会話は存在していなく、「ふにゃらら」の音しか聞こえてこない。「母子」のペアがそれぞれ「単独」であり、母親同士の、大人のコミュニケーションが見えない。それが異様にうつった。
私は、公衆の面前でわが子に対して、そういった「語りかけ」を一切できなかった。だって生後数日の赤子に言葉など通用するはずもなく、目だって見えていないのに……。こんなことを世間に話せば「そりゃそうよ。赤ちゃんなんだから。でもね、赤ちゃんは語りかけられてるのが分かるのよ」と諭されるのだろう。
この行為は私にとっては、見ず知らずの他人の前で、ゲットしたポケモンに話しかけるのと同じレベルで勇気の要ることだった。「いやいや、赤ちゃんはあなたから生まれた、命を持った存在なのよ」とまた諭されるだろうか? 赤子は確かに生き物だけど、私からすると、「何かを伝えようとしているという事が分からない相手・対象」には、こんな公衆の面前で話しかけるなんてことできない。もっとも、家の中で子と二人きりの状況なら、社会から切り離されているから恥ずかしさはないし、外出先だとしても夫と3人で外出している時なら、子を通じて「夫とコミュニケーションしてる」ようなもんだから恥じらいは少ないが。
「言語が通じない」のはオッケー。だから、外国人に話しかけるのはセーフ。だけど見知らぬ他人と話すってだけでも恥ずかしくてモジモジしちゃったり、逃げたくなる人はいるだろう。会話だって得意な人・不得意な人がいる。赤子とのコミュニケーションも、得意・不得意はあるんじゃないか。しかし授乳室の母親(それも超新米の母親)たちは、漏れなく皆、赤子と会話しようとしていた。母性が芽生えると、こんなこっ恥ずかしいことが平気でできてしまうのか? という事は私には母性がない……!? この時点で、私は漠然と「お母さん」としての能力が乏しい、もしくは備わってないのではないか、と不安になってしまった。