守られる加害者と責められる被害者
2010年から2012年にミズーラで起きた複数のレイプ事件が詳細に説明される中で、本書は「レイプ神話」の存在と現実との乖離を鮮やかに浮き彫りにする。見知らぬ人が暗闇から襲ってくるというよくあるイメージとは対照的に、レイプは顔見知りによるものが80%以上を占める。そして顔見知りによるレイプが特に訴追される可能性が低く、さらに連続犯も多い。だが、そうしたレイプ犯は問題ある人たちとは思われず、本人すらもレイプをしたという自覚がなく、相手女性のことを気にかける必要をそもそも感じていないため、自分勝手に合意したと思い込んでいたり、同意を撤回されても平気で無視したりしている。また、被疑者の周りの人たちも、「レイピストになるには彼は思いやりがありすぎ」「将来のある青年」などとしてレイプの事実を否定しようともする。
本書で詳述される、モンタナ大学のアメフトチームの選手をめぐる複数の事例では、加害者は友人たちからも、大学からも、さらには市民らからも守られる。例えば2012年、モンタナ大学のアメフトチームのクオーターバック(アメフトのスターポジション)の選手がレイプの疑いで逮捕され、のちに法廷で無罪判決になり、大学からの除籍もされなかった事件では、モンタナ大学のアメフトチーム、体育局、モンタナ州ともに被疑者を必死で守ろうとした。アメフトチームに至っては、性的暴行の問題がアメフトプログラムと自分たちのキャリアに悪影響を及ぼしているという被害者意識が前面に打ち出され、被害者を心配する言葉が完全に欠落した声明までも発表した。
加害者が必死で守られる反面、被害者は、告発した途端に、友人、大学、警察、検察、法廷や、地域での噂話、ネット上など、あらゆるところで疑われ、攻撃にさらされる。なぜ逃げなかったのか、声をあげなかったのか、喘ぎ声をあげていたから楽しんでいたんだろう、なぜ被害を受けてすぐ警察に言わないのか、証言に矛盾があるではないか、遊んでいるから仕方ないのではないか、彼氏を裏切ったからレイプだと嘘をついているのではないか……様々な疑いを向けられるのだ
クラカワーは当事者や周りの人々の証言、書類、裁判の展開や、アカデミックな文献などあらゆるソースを使って、真相を解きほぐしていく。
被害者の記憶が直線的でなく漠然としていたり、矛盾があることも普通で、性暴力の被害にあっている最中に叫べなかったり、逃げられないのもよくあることだ。また、ショックやトラウマがあまりに大きいため、証拠となるシーツを破棄するといった不可解な行動を取ってしまったり、レイプ直後はうまくコントロールできていると思い込もうとして、空白時期が生じたりもする。
一方で「合意の有無」が問題とされる場合、加害者サイドのストーリーが採用されがちという問題がある。例えば共に酩酊状態にある場合は訴追が困難とされたり、途中で女性が拒絶した場合も「合意がない性交だと十分に示すことができなかった」として訴追されなかったりする。酩酊状態にあった女性が途中で多少の意識を取り戻していた場合も、合意がないとは言い切れないとされる。被害者の女性は徹底的に疑いに晒されるのに、加害者男性は疑わしきは罰せず、となるのだ。
本書はこういう辛い事態に陥ることを覚悟して、それでも告発した人たちの思いを丁寧に描き出す。複数の被害者たちが述べているのが、「自分が告発していたら、これ以上のレイプを防げる・防げたかもしれない」という思いだ。性的暴行の被害を受けたことにとてつもない自責の感情を持ってしまったり、きっと自分は乗り越えて忘れられるとも思いこんだり、でもやはり許せない、といった被害者の揺れる想いも描かれる。そして、そこまでの勇気を持って告発した被害者がのぞんだ裁判の展開をクラカワーは詳細に記述するのだが、被害について具体的、詳細な質問の連続で、かつ被告側弁護士からは被害者の人格をも批判され、読むのも辛い場面が続く。だがこれにより、本書でクラカワーが目指す「これほど多くのレイプ被害者が警察に行くのをためらう原因は何なのかを理解すること、そして被害を受けた人々の観点から性的暴行の影響を認識すること」(10)がひしひしと伝わってくる。被害者は警察、法廷、大学やコミュニティにとあらゆる場でPTSDにも悩まされながら、厳しい戦いを強いられる状況になるのだ。
機能しない制度
クラカワーは、ミズーラのレイプ・スキャンダルの根底にある原因について「モンタナ大学、ミズーラ市警、ミズーラ郡検事局がそれぞれに責任の一旦を担っていた」とする(471)。
モンタナ大学はレイプ事件がメディアから注目を浴びるまで、性的暴行に関して問題がある方針しか定めてなかったし、大学当局は事件をミズーラ市警に届け出ないこともあった。こうした制度上の問題は認識されるとすぐに改善したとクラカワーは述べる。だが、より大きな問題は、前述したように、同大学のアメフト人気と、それが地域にもたらす多大な経済効果だともいう。肥大した特権意識のため、犯罪は隠蔽され、加害者は守られる。
ミズーラ市警はレイピストが責任を逃れられる状況を作っており、刑事や警官に最新の教育を施さず固定観念や誤解を放置したことで、捜査の効果を弱めた。だが同時に、問題を認識したあとは、警官は被害者の主張をまずは信じて性的暴行の調査を開始するという、新たな方針を制定したし、司法省にも協力した。
クラカワーがもっとも責任があるとして批判したのは、ミズーラ郡検事局である。特に、検察局のトップの位置にいた、フレッド・ヴァルケンバーグと、ナンバー2として性的暴行事件の訴追を任されていたキルステン・パブストという二人の検事を手厳しく本書は批判している。検事局は、レイプ事件の訴追に際して十分な検察官の教育が必要にもかかわらずそれを怠った。ミズーラでは2008年から2012年の間に性的暴行に関して、検事局に申し立てがあったのが114件、その中で検事局が起訴をしたのは14件だけだったという(318)。
本書で扱われる性的暴行事件の中でも、起訴し有罪を認めさせることができたのは、刑事が被疑者の自白を引き出させたケースに止まっている。検察は確実に勝てると信じる事件以外は、「証拠不十分」などとして文書による十分な説明もないままに、訴追しなかった。刑事たちが揺るぎないと思うケースでも検事局は訴追しないことが積み重なったため、警察の仕事にも影響したという。米国においては「逮捕されるかどうか決めるのは警察、有罪判決が求められるべきか決めるのは検察」(119)という状況であり、そこに被害者の声が入る余地がない問題をクラカワーは指摘する。
非常に複雑な思いにかられるのは、検事にも関わらず、捜査の段階で加害者の側に立つだけでなく、加害者に対する大学での裁判では擁護する立場の証人になり、その後弁護士として法廷で加害者を弁護するなどもしながら、次席ミズーラ郡検事に上り詰めたパブストはシングルマザーとして苦労をしてきた女性だったことだ。女性が必ずしも性的暴行の被害者側に立つとは限らず、むしろこの場合、全力で加害者側を擁護する立場に回った。
法廷では加害者側の弁護士らが非常に攻撃的な戦術をとった。結果として、本書に描かれた事例の中で加害者が有罪となり被害者が望む量刑を得たのは一件だけであった。クラカワーは「アメリカの司法制度は、全ての真実を語らないという基盤の上に成り立っている」とし、弁護人の仕事は「あらゆる合法的な手段を用いて、「全ての真実」が明らかにならないようにすること」(477) なのだと鋭く指摘する。すなわち、司法制度そのものが、特に密室で起きがちな性暴力事件を扱う際に根本的な限界を抱えているということである。