ジャーナリズムの役割とこの本の意義
もう一点、本書で特筆されるべきことは、ジャーナリストの役割だろう。特に地元紙の『ミズーリアン』のグウェン・フロリオ記者が、ミズーラのレイプ・スキャンダルについて100本以上の記事を被害者の立場に立ちつつ書き続けたことは、被害者たちの戦いや、米司法局の介入、ミズーラで制度がその後改革されたことなどにも大きな影響を与えたことが記されている。性暴力に関する記事を出すことで、フロリオ記者や、取材を受けた被害者らも、グリズファンのミズーラ市民や、パブストら検事局からの猛烈なバッシングの対象にもなった。だが、どれだけ叩かれても、フロリオ記者は記事を出し続けた。
そして、本書の著者、クラカワーのジャーナリストとしての仕事ぶりも特筆されるべきことだろう。最終章で、クラカワーが性的暴行をテーマに本を書こうと思い立ったのは、知人の女性が暴行を受けていたことがわかり、その話を聞いて「自分があまりにも何も知らなかったことに腹が立った」(486)からだと明らかにしている。本書で、クラカワーの被害者や家族、知人、可能な場合は被疑者まで含めたインタビュー取材を行うのみならず、ただでさえ突っ込まれ批判されがちなテーマであるため、ありとあらゆる関連文書や学術文献をも活用し、ジャーナリストとして見事なまでの手腕を発揮している。そして、彼がレイプ・スキャンダルを記述する中で、被害者側の視点をずっと忘れていないことは重要だ。
ミズーラではこの本の出版に関する批判も巻き起こったという。それでもクラカワーが本書を出したことは非常に重要な意義を持つ。書籍として出版されたために、ローカルな新聞報道や、連邦政府の報告書の枠を超えて、本書の問題提起やサバイバーの声がさらに広い範囲の人たちに読まれ、ベストセラーとなり、さらには海外で翻訳される。より多くの人たちにインパクトを与えることになる。
クラカワーは結論で、大学に関して「組織としての責任を放棄せず、性的暴行事件をあっさりと法執行機関に委ねたりしないこと」を強調する。刑事捜査は動きが遅く、様々な限界もあるため、確実にレイピストの学生を罰し、大学コミュニティから追放できないこともある。とにかく被害者が加害者の近くで生活、勉強しなければならないという状況を避けなくてはならず、大学は「性的暴行の訴えを審理する、一様で合理化された、全当事者に公平なプロセスを考案しなければならない」(484)という。モンタナ大学のプロセスは、被害者にとって不利なものでありすぎたのだ。
本書は性暴力事件をめぐって、大学、警察、検察、司法、国、さらにはこの社会を形作っている私たち自身にも、さまざま問題を投げかける。そして日本でも、最近、東大、慶応大や千葉大などでのレイプ事件が報道され、キャンパス・レイプの問題が非常に深刻なものとなっており、警察や司法のみならず、大学の対応も問われている。さらには、ミズーラなどアメリカのキャンパス・レイプへの対応でリーダーシップをここ5年間とってきたのは、オバマ政権下の連邦政府だった。性暴力の問題について、日本の政府の対応も問われているのだが、与党は野党が今年提出した「性暴力被害者支援法案」にさえのってこなかった。そして、これだけ悪質なレイプ事件が複数件報道されるという危機的状況にあっても、何も対応が見えてこない現在の日本政府では、期待できそうにない。