僕らはオナニーを軽んじてしまっているのではないか
杉田 性愛について、坂爪さんは「タブー破り型」と「積み重ね型」を区別しています。前者は世の中のタブーを破るところから性的快感を得ようとするもの。それが「エゴ」的な性生活だとすると、後者の「積み重ね型」の関係は、むしろ「エコ」な(他者と環境に配慮した)性生活であるというんですよね。つまり、人間関係とは少しずつ積み重なっていくものである。いつも同じ相手だとセックスは飽きるとか、必ずしも「時間が立つ=飽きる」ではない。これ、すごいわかるんですよ。大事だと思ったな。
そういえば、こないだの『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)の森山みくり(新垣結衣)もそうですよね。互いの関係性についてものすごく時間をかけて考え続けるわけです。かわいくて無垢だから、天然で何でも許される! というキャラクターとは正反対ですね。自分の恋愛や性について粘り強く考え続けていく。
まく ドラマの『逃げ恥』ですね? なるほどなるほど、確かにみくりは、常に「積み重ね型」で平匡(星野源)と正対しようとしていましたね。特に最終話の前の回のあるシーンなんて、みくりが平匡と「積み重ね型」で関係を作ろうとしてきたからこその言葉だったと思いますねえ。恋愛感情が自分にあることを自覚しつつも、即物的にいきがちな感情に、自分は簡単に流されてたまるか、と抗っている。あのときのみくりの言葉は、平匡に対してだけではなくて、視聴者に対しても叩きつけるように響いたので、だからこそ多くの視聴者はあのドラマに衝撃を受けたのかもしれませんねえ。
杉田 平匡は自意識が空回りしがちで、放っておくと他者関係が積み重ならないんですよね……。自意識を空回りさせることと、他者との関係を粘り強く積み重ねることは、じつは微妙に違う。それゆえにものすごく違うことなんだ。ちなみにまくさんは、坂爪さんのポルノ論について最初に言及していましたけど、どのあたりがポイントだと感じましたか?
まく うーん、そうですねえ…。僕たちの性は、ポルノによって、本当に囲まれているんだなって僕は実感させられました。ついつい女性のことを「採点」や「比較」してしまう。というのも、様々なポルノに触れ続けることで気がつくと僕らはそういう思考様式にハマってしまうわけで。目の前の相手のことを、そういう思考様式の色メガネを外して、ありのまま見つめることができればきっと僕らも楽になれるのに、なかなかそうはなれない。ついついポルノに逃げてしまう、そういう環境が現実にあるわけですから。
杉田 それはあるよね。
まく 非常に新鮮だったのは「ららあーと」という、一般の人同士で生身の裸を見る、そして見せる、という取り組みについて書かれていた部分でした。最初は裸を見せることを恥ずかしく思うけど、見せているうちに、生身のありのままの裸も、「そのままで良いんだ」と自然に思えるようになってくる。逆に言うと、そのぐらい僕たちは世間の記号的な眼差しに影響を受けていて、「自分の裸は劣っているのかも……」と思わされているということでもある、と。読んでいるだけで、納得させられましたね。やっぱりポルノの影響ってあるんだなって。
杉田 坂爪さんは、貧しい記号にまみれた「ジャンクヌード」を批判していますよね。記憶にも残らないようなポルノは、かえって僕らの性体験を貧困化させてしまうと。それに対し、女性の裸をもっとちゃんと見ろ! と言うわけですね。実際に、実物であれ映像であれ、本当は、人間の身体にはジャンクヌード的なスタイルのよさ(美人とか胸が大きいとか)とは異なる美しさの発見があるはず。そればかりか、歪みや醜さとも矛盾しないようなリアルな官能があるはずだ。これは「二次元よりも三次元の方がエロい」という話とも違うことですよね。……ところで、坂爪さんって、ポルノ全般を批判しているんですかね?
まく あー……。どうでしょう。僕の印象だと、この本は基本的に「現状のポルノ」を批判している感じがしました。現状のポルノを肯定しているような記述はなかったような記憶がありますねえ。
杉田 僕はよく性愛について「搾取しているつもりが搾取されていた」「ブロイラーを食べて自分の肉体もブロイラーになっていく」という比喩を使うんですけれども……。
男性の性は、そもそもたんなる処理の対象(ゴミ)と見なされていて、社会的な配慮が必要なもの、つまりケアの対象とは見なされていないという坂爪さんの指摘はどきっとしましたね。女性の生理については、そうではないはずですよね。色々と十分ではないにせよ、学校でも性教育の対象になっている。本当は男子の射精だって、生理現象であると同時に、社会的行為でもあるはずです。けれども、そういう身近で当たり前な現実が、見えなくなっちゃっている。そのことには、どこか、アディクションのような僕らの日々のポルノ視聴が関係しているのかもしれない。僕らは、日々のマスターベーションを安っぽく軽んじてしまっていないか。快楽を極めるという意味ではなく、自分の男としての身体をもっと愛せるようなオナニーの仕方があっていいのではないか。
まく 僕も、射精が「処理の対象」ではなく「ケアの対象」だ、と論じられていたところでは、ドキッとしました。「処理のための射精」ではなく「ケアのための射精」へ、日々の射精行為を、自分の身体と心のケアとして考える……。なかなか難しいです。僕自身、自分で実践しようと思うと。でも、とても大事なことだと思いますね。身体と心のケアの問題は、自分でも本当になんとかしたいって思いますから。性の問題もそこに関わるんだなって、あらためて考え込んでしまいましたよ。